母親が「母親」に向いてないという話
いわゆる一般の「母親」ってどんなものなんだろう。
家にいて、帰ったら「おかえり~!」って言ってくれる。
おいしいごはんを作ってくれる。
家事が行き届いていて、床も机も棚もピカピカ。季節のお花まで飾ったりして。
お化粧して、おしゃれで、スキンケアが大好きで。
そんな母親を夢見続けてきたのかもしれない。
だとしたら、その「理想の母親」に、うちの母は向いていないかもしれない。
髪振り乱して、仕事している。
夕飯づくりは量が多すぎたり少なすぎたりしている。
段取りができなくて、あっち行ったりこっち行ったりしている。
部屋はきれいではなくて、散らかっている。
お花もたまに枯れたままになったりしている。
私は、母親に理想の母親を押し付けている気がする。
話を聞いてもらえないこと。
母親の意見を素直に受け止められないこと。
家庭も100点、仕事も100点は厳しいかもしれない。
だけど、家庭でも100点、仕事でも100点を求められて、
それを必死に100点取ろうとしているのが母親だと思う。
うちの母親は理想の「母親」に向いていない。
理想の「喪失」も悲嘆のプロセスをたどっていく。
社会の理想は子どもに早期の「喪失」体験をさせていると感じる。
常に願いが叶うような万能感なんてものは芽生えず、
とにかく早期から喪失のプロセスと向き合うのだと思う。
私は喪失のプロセスの5段階目をようやく迎えているようだ。
理想の「母親」像から抜け出すのはかなり長かった。
それだけ役割に目が向いて、相手を相手として受け入れられなかった。
自分の期待と相手の状態が一致しないとき、不協和になってどうしても受け入れられなくなる。
そんな状態をメタ的に受け入れて、相手を相手として接することができれば。
理想の「母親」に向いていなくても
自分の母親として最高の母親なんだろう。