母親が「母親」に向いていない話2
前回、自分の中の「母親」という役割の認識と、自分の母親のミスマッチで長年苦しんでいたことを文字に起こした。
でもこれは、母親に限ったことではないのである。
役割は時に期待になって、社会にはびこっている。
私は自分に課せられた役割に非常に敏感だ。
それは、自分じゃない何かの役割を担うことで、褒められることを繰り返してきたからだと思う。
「お姉ちゃんだから」譲れて偉いね。
「もう小学校高学年だし」一人で過ごせるよね。
「先輩として」後輩に示しがつくように動けててさすがだわ。
自分はいったいどこにあるんだろうか。
個人じゃない肩書によって話が進むとき、
私は時々求められていることを発揮しようとして苦しくなる。
それは、自分の中でその役割が果たすべきことを作り上げ、
そこにあてはまれない自分に落胆するからだ。
「新卒」だから、素直でなんでも仕事をこなさなければならない
「お母さんだから」明るくて子どもに優しくてかわいくなくちゃいけない
「○○だから」こうするのが当然。
意外と社会から、自分が見た情報の中から、べき理論を取り去るのは難しい。
取り去ったところで、なにを指針として生きていけばいい?
自分の行動や思考の方向性を決めるのに、役割は必要なのだ。
また、他者と、社会とつながるために、役割は必要だ。
家族にしても、友達にしても、恋人にしても、会社にしても、役割がある。
誰かとつながるときは自分が求められている役割を果たす。
そう思うと、なかなかにつらかったりするのだ。
相手が求めていることを私に感じさせないで。
一人にさせてほしい。と思うときがある。
まあ勝手に役割を作り上げているのは自分なんだけどね。
だから「やーめた」って言って、邪推をやめる癖をつけた。
個人でいるのも、役割意識の中で生きようとするのも、自分次第だから。
誰も介さないで、自分だけの幸せを見つけられればそれで幸せなんだけどな。
それはそれでさみしく感じたりしちゃうのが、厄介だね。