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春夏秋冬砂漠

世界が怖い、生き辛い

暇だから色々考えちゃって良くないよ、やることパンパンに詰めよってアドバイスには脊髄で拒否しちゃったりする。
でもそれは本当に本質かも。

本質なんだけど、どうしたら暇じゃなくなるんだろうな。詰めるって言ってもやりたくない、やる気が出ることじゃないものを詰めてもそれは僕にとっては暇な気がする。
詰めても考えちゃう隙間を見つけてはそこでむりやりぐるぐる落下してしまう。

レンガで詰めても詰めても僕の中のどうしようもなく怠惰だったり眠気だったり、そういう柔らかくて、パセティックな部分が液体になって隙間を縫ってレンガを浸していく。次第にレンガの層をぬけてぽたぽた落ちる音がする。
乾いたレンガもぽつぽつ黒くなって、灰色になって、そのうち泥みたいになって、崩れちゃうのを何度も見た。
砂漠にだって雨を降らして、泥団子を作って投げて遊ぶのだ。
そういう気がする。
なんてったって砂漠にである。あれって詰まってるとかそういう次元じゃないじゃないか。そのくらい詰めても積もってもどこからともなく雲がやって来て、雨が降っている。
僕は雨を降らしたりするつもりは、無いんだが。たぶん。

言い訳だ。自分の選択をある種の運命的なものに仕立てあげて責任の所在を曖昧にするのだ。僕はそういったものばかり得意だったりする。
でもなんかこう、無意識的に何度もなるもんだから、いや、辞めよう。雲を作ってるのも雨を降らすのも、健常な僕がやっているから。
残念なくらい健常だ。いっそ健常じゃ無かったらいいのに、なんて思ってしまう。

せっかく足元に泥があるのだし、僕は責任の所在に泥をぺたぺた貼って何か分からないものにする。だってそうしないと見てられない。
雨が降る。雨は輪郭がぼやけたそれを、機械的に非情に洗い流す。見てられなくて吐く。吐瀉物がそれに付け加えられる。一層見ていられない。

23歳も生きてて分かったことは、いままで砂漠を作ろうとしていたなあということだ。
砂漠を作ろうとして、レンガで層を作っていた。
そういう空虚で、その場しのぎ的な材料を使って作られた虚構の建物は、すぐに雨が降って泥になっちゃうなあってことだけ分かった。

これからの僕が雨にさらされて風を引いて倒れて死ぬまでに、運命が僕の上に砂漠を作ってくれるのを待つか。レンガを作り続けるかの2択。


裸で雨風の中で望んで走ってたのは1年前だったかなあ。
1年経てばいろんなことはすっかり変わります。
本当は何も変わってないとしても、そういう風には思えなくなってきました。思いたくもない。そう思っちゃうと、もうどこにも行けないから。だから自分ではすっかり変わっちゃったんだって、思うようにしています。

大学4年生、現在

そのレンガは、泥になっちゃって、僕はとても歩きづらいです。
進んでみますが、周りのいろんな人に謝らないことが多くなりそうで億劫だなあ。
謝る時は、ちゃんと泥くらいは落として謝ろうと思います。そしてまた、泥に帰って歩く。しかないです。
正直まだしかたないことをやるっていうの、受け入れられてません。雨が怖くて

生き辛い、みんなの言ってることもわかる気がします。

うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救済された自分を発見することができるかもしれない、と、言う人もいます。
だけど僕がこんなに苦しいのは、泥の中で幸せに生きたいと期待しているからなのかもしれません。少なくとも泥の中はキラキラ輝いているはずだった自分を見ずにすむので。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。
僕たちはそんな風にして生きている。

風の歌を聴け/村上春樹


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