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【感想】映画『箱男』
以下、あらすじコピペ。
完全な孤立、完全な孤独を得て、社会の螺旋から外れた「本物」の存在。ダンボールを頭からすっぽりと被り、街中に存在し、一方的に世界を覗き見る『箱男』。カメラマンである“わたし”(永瀬正敏)は、偶然目にした箱男に心を奪われ、自らもダンボールをかぶり、遂に箱男としての一歩を踏み出すことに。しかし、本物の『箱男』になる道は険しく、数々の試練と危険が襲いかかる。存在を乗っ取ろうとするニセ箱男(浅野忠信)、完全犯罪に利用しようと企む軍医(佐藤浩市)、 “わたし”を誘惑する謎の女・葉子(白本彩奈)......。果たして“わたし”は本物の『箱男』になれるのか。そして、犯罪を目論むニセモノたちとの戦いの行方はー!?
・“見る”とはなにか
人と人との関係性は、常に互いを見るor見られるのせめぎ合いに晒されている。自分の文脈の中で相手を解釈し、自分もまた相手の文脈によって解釈される。当然、文脈が一致するとは限らないし、コミュニケーションの中で互いに修正しあって闘争を避けるものだ。しかし箱男は一方的に世界を見る側に徹している。映画をみて感じたのは、これは極めて暴力的な行為だということ。
一方的に見るとはどういうことか。普通は文脈を修正しあう事で闘争を避けているが、一方的な目線しかない箱男には、自分の文脈を修正する必要がない。彼の世界は彼の文脈によってのみ、解釈される。見られる側にとって、それはとても居心地の悪いものだ。箱男を気にしなければいいのだが、そういう訳にもいかない。隣のクラスで身に覚えのない噂話が流行っていたら、誰だってその噂話を訂正したいと思うだろう。友人と居酒屋の個室で飲んでいる時、隣にダンボールを被った何者かに覗かれていたら、気にしなくていいと言われてもそうはいかない。互いに了承し合ってコミュニケーションをとる事に慣れている僕たちは、一方的に物語にはめ込まれる事にストレスを感じる。
「箱男の本質は箱を被っている事ではない。彼の書く日記こそ、彼を箱男たらしめているのだ」
たしかこんな台詞だったと思うけど、これは核心をついているように思う。一方的に見るということは、世界を彼の文脈だけで見るということ。文脈、つまり物語であり、日記だ。見たものを日記に記述するという行為には、本質的な目的が含まれている。
・見るという快楽
彼は覗く行為に性的な興奮をしている。他者の文脈を排除して自分だけの物語にしてしまうというのは、他者の目線を否定し、他者の存在をを犯し凌辱しているからだ。“あなたはこういう人間だ“と一方的に決めつけられるのは、ほとんど暴力に近い。
「箱男を過剰に意識する者は、自ら箱男となる」
箱男を観察する医者は、やがて彼の快楽に共感し、箱男になってゆく。しかしひとつの町に箱男は一人しか居てはいけないという箱男界の暗黙のルールによって、二人の箱男は対決せざるえなくなった。なにこのルール?という感じだが、箱男はが二人いては、それまで一方的に見ているだけだった箱男も、相手の箱男から見られるという不都合が生じてしまう。それまで避けてきた対等な目線に、はじめて晒されるのだ。箱男同士の論争、これはどちらが書いた物語(日記)なのか?という主張合戦は、どちらが見る側に回れるのかという闘争だった。ちなみに映画の箱男同士の白熱のバトルシーン、滑稽すぎて爆笑しました。最高。
・他者の目線
箱男は女性に恋をしてしまう。これが結構な純愛で、それまで他者不在の目線のみで生きてきた箱男は、はじめて女性からの目線を尊重してしまう。こういう類いのヘンタイは恋した女性こそ自分の物語に組み入れて、凌辱したくなりそうなものだけど彼は意外と大人だね。箱男は女性を「箱の続くトンネルの出口から見える光」と表現した。はじめて箱の外に希望を見たってわけだ。ここで箱を外せばめでたしめでたしなんだけど、そう簡単にハッピーエンドとはならない。ここで箱男がとった行動とは、家全体にダンボールを貼って大きな箱にしてしまい、彼女をその中に閉じ込めて一緒に暮らすというもの。うーん、救えないなあ。
・まとめ
僕は原作を読んでいないけど、さすがは安部公房といった感じ。箱男の一方的に見る行為を、現代のSNSやネットのコメント欄に通じるという評価ももちろんできるけど、けしてその範疇だけには収まらない印象を受けた。原作はもっとすごいんだろうな。
映画は正直言って、そこまで好きにはなれなかったというのが率直な感想だ。アートっぽい感じはちょっと肌に合わなかったみたい。役者の演技もあえて大袈裟に演劇っぽく、作り物感を意識していると思う。この映画自体も物語であるという、テーマ的にも合っている演出だと思うけど、ちょっと過剰な印象をうけた。だってそもそもダンボールを被って徘徊するだけでも現実味がないわけで。それに全体的に説明っぽく、とくに最後は「そこまで言われなくても伝わっているよ」と言いたくなるくらい、過剰な説明に若干の萎えを感じてしまう。ラストシーン、劇場を巨大な箱に見立てて観客を覗く主人公がズームアップされた時、嫌な予感がして、言うなよ、言うなよ、と思っていたら、案の定「箱男は…お前だ!」。
いやいや、一方的に論評するのは良くないね!そういうとこだぞ、おれ。でも観終わった次の日(今日)も、未だに箱男が脳裏に残っているという事は、やっぱり観てよかったと思う。いちばんの感想は、安部公房はすごい。ちゃんと読まないと…!