陽キャが嫌いってわけじゃなかった
最近、気付いたことがあります。
わたしは、積極的で社交的で明るく、躊躇なくグイグイ近付いてくる人(いわゆる「陽キャ」)が嫌いなのだと思っていました。
でも、そうではありませんでした。
価値観が違うのもいい。
考え方が合わないのもいい。
距離感がバグってるのもまぁ、いい。
その違いをわたしに押し付けてこなければ
自分の考えをわたしにも強制してこなければ
全然、嫌じゃない、ということに
遅ればせながら気付いたのです。
たとえばわたしは若い頃、「関西人が苦手」と思い込んでいました。
今までの価値観を根底から覆されてびっくり仰天したとは言え、「関西人」と一括りにして避けたのは早計でした。
同じように
陽キャ
パリピ
ネアカ
それは、多面体であるその人の
たった一面でしかありません。
また価値観押し付けられる!という警戒を少し緩めてみればあら不思議。
そんなこと
全然
まったく
してこない人もいるのです。
彼らの存在は、むしろ有難くさえあります。
だって、世の中がわたしのような臆病者ばかりだったら、何も進まないしどこにも行けませんから。
やってみよう!
飛び込んでみよう!
聞いてみよう!
行ってみよう!
どう思う?
とグイグイ突き進んで周りを巻き込む彼らがいなかったら、みんなが様子見をして過剰に気を遣い合い、石橋は叩き過ぎたことで割れて川を渡れなくなり、世界はさぞジメジメした空間になることでしょう。
人類はグレートジャーニーを成し遂げることなく、そうなるとわたしはそもそも、生を受けていないでしょう。
誰も傷付けない会話をし続ける才能は、わたしにはありません。
頑張れば出来ないこともないけれども、所詮頑張ってやっていることなのでボロが出ます。
必死だから持久力無いし。
人見知りだらけの食事会や
取引先との立食パーティー
初対面だらけの結婚式一次会のテーブル
乗り越えるのが困難な場面に、根っから明るい人が1人いてくれるだけで本当に、本当に助かります。
わたしがぼんやりしている間に、いとも自然に、華麗に場を繋いでくれますから。
実生活でも最近そんな人に出会って
noteにもそんな人が、います。
関西人を一括りにするのは誤りであるように
陽キャを一括りにするのも間違いでした。
自分こそが正義と信じて疑わない人
違いと間違いの区別がついていない人
自分ではなく他者の行動を変えようとする人
わたしが苦手なのは、こういう人でした。
陽キャでは、なかったのです。