みんなに出来ることが、わたしに出来るとは限らない
わたしは、みんなに出来ることが何一つ出来ない子どもでした。
跳び箱が飛べない
逆上がりもできない
あーそーぼーって言えない
大縄跳びに入れない
打ち解けて話せない
就職氷河末期に、どうにかこうにか会社員という枠に滑り込んだあとは「普通の社会人」に擬態することでなんとかやり過ごしてきました。
自分の無能さをきちんと理解しているからこそ、ボロを出さないよう慎重に行動することが出来たし、周りの人々の真似が上手なわたしは割合、擬態が得意でした。
内心バクバクでも、膝ガクガクでも、別に余裕だよね、あるある、みたいなハッタリをかますことが出来たのです。
そんなわけで、自信があるように誤解されがちなわたし(実は似非)がたまに
え
でも
どうだろう
出来るかどうか…
とか言って迷っていると、
大丈夫だよ!
こんなのみんなやってるんだから
誰にだって出来るって!
みたいな激励の言葉を掛けられることが時々、ありました。
そんなとき、わたしの中で再生されるのがmy座右の銘。
みんなに出来ることが、わたしに出来るとは限らない。
(いやな座右の銘だな)
またある日、仕事で誰かがミスをして、同僚が「あのバカが!」とか言いながらボロカスに悪口を言っているのを見たとき。
この人にはコンプレックスとかないのかな、やっぱり小学生の頃、跳び箱は最初から5段くらい飛べたのかなと妄想してしまいます。
みんなが難なく出来ることを自分が出来なかったことがないから、出来ない人が許せないんだろうな。
そんなことも出来ない人のことは、想像の範疇に無いんだろうなと。
デキる人の振りをしていたモヤモヤ期を脱し、出来ないことは出来ないと言う立派なメンタル太めのおばちゃんとなった今でも、わたしにははっきりとした劣等感があります。
ドラマで見た病の前兆レベルの忘却をするし、
道の2択でいつも間違っているほうを選ぶし、
歩く・走る・食べるなどの、人間の基本動作すらおぼつかない。
(よく躓くし、蕎麦すすれないし)
結構人生経験を積んだはずの今も、みんなが簡単に執り行っている(ように見える)ことが、わたしには難しい。
でも、わたしは自分が人より劣っている部分がたくさんある、という自覚があるからこそ、人の間違いを悪様に罵ったりしません。
人が「ウソだろ」というミスをしても、もしかしたらこういう背景があったのかもなと慮ります。
というか、罵れないし慮るしかない。
だってわたし自身がポンコツだから。
がんばっても出来ない人の痛みがわかるから。
みんなに出来ることが、わたしに出来るとは限らない
けど
わたしに出来ることが、みんなに出来るとも限らない。
わたしはわたしの、ちょっとしかない残りカスみたいな長所を大切にして、ひっそりと穏やかに暮らしていきたいと思っています。