役に立たないことが誰かの役に立つ、かも
わたしのnoteは役に立ちません。
少なくとも、わたしのnoteを読んで直ちに人生がうまく行くようになることはないし、大切な真実に気付くことも、迷いが消えて前向きになることもないでしょう。
何故なら、お役立ち情報ならわたしからではなく、ちゃんとした筋のしっかり勉強している人から聞いた方がいいだろうと思っているし、そもそもの前提としてわたしがポジティブでもキラキラしてもいないからです。
わたしはnoteだけではなく、普段の生活でも主だった活躍はしていません。
新規の案件はなるべくわたしに来ないように必死で目を逸らしているし、新入社員と何を話したらいいのか分からないから引き継ぎが終わったら放置気味だし、疲れたら家事をせずに横になるし、珍しく頑張って漬けた梅干しは土用干しのタイミングを完全に見誤ったので秋晴れの時期に干そうかなと思っているし。
そんな人間の書くnoteが、尊い皆さまのお役に立つわけありません。
でも、もしかしたら。
「なんだ、わたしだけじゃなかった!」と安心する人がいるかもしれません。
将来に不安を覚えていたけれど、向上心の無いぼんやりしたおばさんでも楽しそうに生きているから、わたしも大丈夫かも、と思う人がいるかもしれません。
わたしの不出来な様子を垣間見ることで「やっぱりわたしは優れた人間だな」と自信を持つ人がいるかもしれません。
あるいは、わたしのしでかした失敗を助けて「あーいいことした」と思う人がいるかもしれません。
わたしの「役に立たない」という認知とは別の視点で役に立つ可能性がある、ということ。
あるいは、役に立っていない、という事実そのものが誰かの役に立つ可能性がある、ということ。
わたしたちは誰しもが、読んだり聞いたり見たり、何かしらの方法で情報を得たりして、それを知識として蓄積したり捨てたりして生きています。
自分では要らない情報と判断して、忘れたと思っていることでも何かの拍子にパラっと落ちてくることもあります。
誰かがわたしのnoteを読んで、途中で「つまんない」と思って閉じて、1年後に思い出すでもなく思い出して、誰かがこんなこと言ってたな、なんだっけ、下手くそな文章であの時は何言ってるか分からなかったけど、もしかしたらこういうことを言いたかったのかもしれないな、と考えることがあるかもしれない。
そういうことの為に、わたしはnoteを書いているのかもしれないな、と思います。