「ものすごくいい人」が苦手
誰がどう見ても「いい人」っていますよね。
人格者、というか。
例えば、人生が掛かっているような重要な試合に勝った後、自分たちの勝利を喜ぶ前にミスした相手選手を慰めに行く人とか
むちゃくちゃ理不尽な怒られ方をしてさぞかし苛ついていることだろうと思ったら、怒鳴っていた相手のメンタルの心配をしている人とか
絶対に人の悪口を言わない人とか
常に謙虚な姿勢を崩さない人とか
鷹揚な微笑みを湛えている人とか
もしかして、人間界に降りてきた菩薩なのかな?というような人。
尊いですよね。
でも
わたしは、こういうアラのまったく見えない人が苦手です。
何故かというと、アラが見えない
=何がこの人にとって嫌なのかが分からない
=どう接するのが正解かが分からない
からです。
だって、こういう超絶いい人と接すると緊張しませんか。
実はわたしが何か地雷を踏んでいるけれども歯を食いしばって耐えているだけかもしれない。
ニコニコしているけれども、実際のところ本当に楽しいのか、辛くてしょうがなくて後で家で泣くつもりなのか分からない。
悪感情を全て封じ込めることが出来るということは、心の中で「この人嫌い、いなくなればいいのに」と思っていても、親しみを込めた笑顔で、ガッチリと握手してくれるということ。
…
怖いよ!そんな人。
だから
「こういうのイヤだよね」
「こういう人ってムカつくよね」
「困るよね」
「やめて欲しいよね」
なんてことをたまにうっかり言っちゃうような
はっきり言葉にしないまでも、せめて
「えー?…まあ、いいけど…」
くらいの、ちょっと嫌な顔をするくらいの意思表示をしてくれる人の方が付き合いやすいと思うのです。
考えてみれば、夫とも、唯一の友だちとも、
「こういう人が苦手」
「こうされたら腹が立つ」
「こんな空間が辛い」
というような「嫌だと思うこと」が似ている気がします。
わたしが母との関係に悩んでいたときも
大体の人が
「お母さんの悪口を言うものではない」とか
「よかれと思ってしてることだと思う」とか
「お母さんの気持ちも考えてあげなよ」とか
母の擁護をする中で
「それは大変だな…」
「なにそれヤバイ」
などと、わたしの辛さに寄り添ってくれたな。
共感してくれるって
有り難かったな。
後世に残すべき伝記が書かれるような大人物よりも
失敗したり
やらかしたり
間違えたり
悩んだり
迷ったり
慌てたり
そういう人がわたしは好きで、もっと知りたいと思うのかもしれません。
だから、わたしはnoteが好きなのかもしれません。