哀しみに触れたとき
同僚のご令兄の訃報を聞きました。
突然のことだったそうです。
わたしたちの年代(40前後)ですと、祖父母に続き、両親のいずれかが…というのは心のどこかで覚悟をし始める時期ですが、多少歳が離れていたとしても、きょうだいは想定外、である場合が多いように思います。
いつ何時、誰がというのはわからないものだなと改めて感じました。
祖父のことを想いました。
年齢の割に元気にしており、その頃相手もいなかったわたしに向かって度々「まだ結婚しないのか」とせっつくなど、家族の地雷をよく踏んでいたものです。
わたしは当時20代半ば。自分は大人だと認識しているにも関わらず、思ったより自分で自分のコントロールがうまく出来ずにモヤモヤしている時期でした。
「わたしが一番気にしてるんだから、何回も余計なこと言わないでよ!」
くらいのことは言ったかもしれない。
いや、言った。
言いました。
具合が悪いだの
仕事を辞めたら暇でしょうがないだの
最近のテレビは碌なものをやっていないだの
文句ばっかり言っていた祖父。
母と「悪態ついてる内は、なんだかんだで長生きしそうだよね」と笑い合っていました。
そんな祖父の訃報が入ったのは、会社の昼休憩中でした。
兄からの着信、という段階で
「何かがあったのでは」
という予感はありました。
両親のどちらかがケガでもしたか、まさか交通事故とかだったりして…と思いながら電話に出ると、なんでもないような、いつもの兄の声で
「驚かないで聞いてほしいんだけどさ」
という、ドラマでしか聞いたことのない前置き。
悪い予感が当たったことを確信しました。
「おじいちゃんが…亡くなったんだって」
予想外の展開に混乱しました。
だって、だってわたしは祖父と、その日の朝も言葉を交わしたのです。
玄関の前で体操をしている祖父と
「おはようー行ってきまーす」
「おう、気を付けて行っておいで」
などと。
常と変わらないように見えた祖父が、なぜ?
わたしは騙されているのでは
兄の悪い冗談なのでは
どうかそうであってくれ…
と願いながら会社を早退して家に帰り、祖父が搬送された病院に向かい、ようやく冷たくなった祖父と対面することが出来ました。
それまでは現実味がなくて涙も出なかったのですが、血の気がまったく無い祖父の顔を見たときにようやく理解し「これが号泣」というお手本のような泣き方を、物心ついて初めてしたのを覚えています。
ご令兄の葬儀を終えて出勤してきた同僚は、急な欠勤を詫びつつ、晴れやかな顔をしているように見えました。
周りの人たちは
「思ったより元気そうだね」
「もっと沈んでるかと思ったけどよかった」
などと言っていましたが、わたしは本当にそうだろうか、と思いました。
出社したからなんとか笑顔を見せているだけで、今も哀しみの只中にいるかもしれない。
これからも度々、不意な哀しみに襲われるかもしれない。
哀しみの形は人それぞれで、故人との関係性もそれぞれ。
人の苦しみは、見た目からは推しはかり得ないものです。
わたしが出来るのは「元気そうだね」と声を掛けることではなく、残業などして過度な負担が掛からないように気を配ることかなと思っています。