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かわいそう、かどうかは自分で決める

コロナ禍に学生だったり就職活動していた若者はかわいそうだ、と誰かが言っていました。

かわいそう。

そうでしょうか。

いや、大変だっただろうなとは思います。
きっとわたしの知らない、味わったことのない困難があっただろうなと。

でも「かわいそう」ではないかもしれないと思うのです。

***

かく言うわたしは「あなたは素敵なお母さんを持って幸せね、感謝しないとね」と色々な人に言われながら育ってきました。

確かに母は、面倒見も人当たりもいい、人望の厚い人です。
でも、娘であるわたしを自分の思い通りに誘導しようとしたし、そこから外れようとすると「そんな子じゃなかったのに、もっと素直な子だったのに」と深夜までわたしを詰ることが度々ありました。

わたしは、ちょっと飛べば出て行けそうなのに、透明な結界が張られているらしい鳥籠に押し込められているような気がずっとしていたし、頻繁に何か大きなものに押し潰されそうになる夢を見ていました。

よく2人で出掛けていた為、外から見たら仲の良い母娘に見えたでしょうが、それは母がそう望んだからです。

幸せね、感謝しないと、と誰かから言われる度、わたしは顔では笑いながら、内心では強烈な違和感を覚えていました。

当時は自分のモヤモヤを言葉で説明出来なかったけれど、わたしはたぶん、こう思っていました。

わたしが幸せかどうか
母に感謝するかしないかは
あなたではなく
わたしが決めることだ。

コロナ禍、わたしは既に今の会社に入ってだいぶ経っていたので、仕事がリモートになってもチャットやメールでのやり取りになっても、社内外の人たちとのコミュニケーションについて特に困難は感じませんでした。

よくよく考えたら、自ら積極的且つ頻繁に連絡を取り合いたい相手は夫だけだったので、真に乗り気でなかった人間関係をコロナ禍を理由に大手を振って断つことが出来るようになって、むしろ精神が安定したほどでした。

でもたぶん、学生の立場だったらもっと友だちと密な関係を築きたいと思ったかもしれない。
授業がリモートになって、部活が中断されて、大会が中止になって臍を噛む思いをしたかもしれない。
コロナ禍でなかったらもっといい就職先があった筈なのにと悔しく思ったかもしれない。

ただ、そのことが「かわいそう」だったかどうかは、その人自身が決めること。
外野のわたしが決めることではない、と思うのです。

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