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放っておいてほしい、でも居場所は欲しい

便利な台所用品だとか
ちょっと質のいい食品だとか
ハンカチやふきんだとか

そういうものの片隅に少しだけ、洋服や服飾小物も置いているような、いわゆる雑貨屋さんを、わたしはこよなく愛しています。

洋服を主に扱っているアパレルのお店は、店員さんが皆さん、話し掛けていらっしゃるでしょう。
わたしも昔々店頭に立っていたことがあるから、話し掛けずにいられない店員さんの気持ちも重々承知なのですけれども、放っておいてほしいやら好きにさせてほしいやらで、わたしは洋服がとても好きなのに、アパレルのお店がいみじく苦手です。

ところでわたしは子どもの頃、公文っ子でした。

「やっててよかった公文式」でお馴染みの公文です(今は「くもん、いくもん」でしょうか)。

学校もピアノ教室もそれほど好きではありませんでしたが、公文は好きでした。

ひたすらに問題を解き続ける公文。
基本的には自分で進めて、分からないことがあったら聞きに行ける先生が常駐している公文。
ときどき休んで空を見上げ、雲の流れを眺めていても咎められない公文。

その自由で伸びやかなスタイルが、子どもながらに気に入っていたのだと思います。



これ、基本的には自分で選んで、分からないことがあったら尋ねられる店員さんがそこにいる雑貨屋さんと、通じるものがありますね。

そう考えを巡らせてみるとわたしの場合、仕事も家庭も似たような環境です。

基本的には自分で進めて、トラブルが発生したら総合職に相談したり引き継いだりできる一般職。

基本的にはお互い好きに過ごして、暇になったら夫に話し掛けられるおうち時間。

わたしはそんな感じの、適度な自由と安心がセットになっていて、基本的には放っておいてくれるけれどもちゃんの自分の居場所だと思える空間を、心地よく感じるようです。

カリキュラムがガッチリ決まっていて、よく分からなくても全体の流れに沿ってどんどん進んでしまいがちな高校までの授業よりも、基本的には受けたい講義を自分で選んで、興味を持ったことはその分野にむちゃくちゃ詳しい教授に質問できる大学の方が性に合っていたのも、同じようなことかもしれません。

なんかやだ
でもここなら大丈夫

なんかやだ
でもこの人なら大丈夫

なぜ「なんかやだ」なのか、なぜ「大丈夫」なのか、理由は即座に言語化できなくても、そうやってトライアンドエラーを繰り返し、自分がどうしてほしいのかが徐々に詳らかになる中年期。

生きてて楽しいなと思います。

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