いい人なのに嫌いって辛いけど
何故わたしはときどき励まされるんだろう、と不思議でした。
懸命に言葉を選んで、自虐ではないことを伝えているつもりなのに、なぜか励まされることがあるのです。
わたしは別に望んでいないのに、大丈夫だよ!気にしないでいいと思うよ!などと言われる。
大丈夫だし
気にしていないのに。
価値観の違いも否めませんが、ふと、これってもしかして、わたしに声を掛けてくれるその人自身が「励まされたい」と思っている、ということなのかもしれない、と思い至りました。
自分が自虐、のような発言をしたときは
「そんなことないよ」
「大丈夫だよ」
とフォローしてほしいと思っている。
だから、わたしのことも励ましてくれるのかも。
善意、なのかも。
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自分と同じように人を愛しましょう
されて嫌なことは人にしないようにしましょう
などと、よく言いますよね。
間違いではないと思います。
自分を労わるのと同じように人のことも気遣い、叩いたり不機嫌をまき散らしたり、自分がして欲しくないことは、人にもしない。
そうあるべき、という感じがしますよね。
でも
自分がして欲しいことを人にして
されて嫌なことを人にしない
そんな尊い行いをいつも積極的に実践していて
善意しかない(ように思える)人なのに
それなのに何故か
超絶合わない、
いや、というか…もはや
嫌い。
ということが、あります。
人間関係において、こういう場合がいちばん厄介なのではないかと思うのです。
相手に悪意があれば
こちらも悪意で対抗できます。
攻撃されたり、悪口を言われたりするなら堂々と策を講じられますよね。
相手の罵詈雑言を録音・録画したりメモを取ったりして、公的な手段で訴えることもできます。
周りに相談すれば「なんて酷い人なの」「かわいそう」と大いに同情してもらえることでしょう。
でも、善意の励ましやお節介が如何に重荷であっても、それを誰かに話した際、共感を得るのはひどく難しいことが予想されます。
「いい人じゃない」
「気遣ってくれて有難いじゃない」
「感謝しなきゃ」
「そんなこと言ったらバチが当たるよ」
などと、言われたりもするでしょう。
それって、不幸ですよね。
する方も、される方も、お互い。
勧善懲悪、なんていうのはお芝居の中の話で、実際にこの世の中を泳いでいると善と悪なんて簡単には分けられない、と思うのです。
いい人なのに、嫌い
いやな奴なのに、好き
こういう、理屈じゃない、「相性」というフワッとした言葉でしか言い表せないことって、確かにあります。
でも、そう思えば…
誰かに徹底的に嫌われたってそれは
わたしやあなたが悪いんじゃない。
ただ単に相手と合わなかっただけ。
良いとか悪いとかじゃない。
しょうがないよ。
どんな関係性だって
相手がどんないい人だって
合わないことはあるよね。
嫌われても、嫌いでも、しょうがない。
そう思える利点もあるな、とも思います。