「その日」を迎える覚悟は出来ている(つもり)
思えばわたしは「好き」の継続が不得意でした。
今度こそはと意気込んでいた趣味も結局しんどくなって続かず、運命の相手と思える彼氏ができても、差別的な面が見えたり尊敬できなくなったりするとすぐ、冷めていました。
「飽きっぽい性格」で片付けていいのかしら、わたしには何か、人としての決定的な欠落があるのではないかしら、と悩んだこともあります。
でも、夫のことは出会ってから今までずっと好きで、嫌いになったことはありません。
性別とか属性とかを超越し、もはや生き物として好きなので、たぶんこのまま一生、脳の異常とかが起こらない限りわたしは夫のことを好きでい続けるのだろうなと予感しています。
一緒にいることで生きる張り合いが持てるし
強制も押し付けも不自由も無いし
毎日嬉しいし楽しいし大好きだし
わたしにとって、夫と生きることはメリットだらけです。
一方、夫はわたしと出会うまで「出来ることなら子どもが欲しい」という希望を持っていた為、子どもを持ちたいと思わないわたしを伴侶に選んでしまったことで、大きなデメリットを負っています。
だから例えば、やっぱり自分の人生には子どもが必要だと分かったとか、他に好きな人ができて、その人との間に子どもが…とか、もしそういうことが起きたなら、わたしは潔く身を引くしかないなと思っています。
結婚したときに夫が、子は無くともわたしと一生添い遂げようと思ってくれた、そのことについては疑っていません。
でも、秋の空に例えるべくもなく人の心は変わります。
夫が心変わりをしたとて何を驚くことがありましょう。
封印したと思っていた願望が、ふとしたことで溢れ出てしまって戻れなくなった、そんな夫を、デメリットを強いている大元であるわたしが責められましょうか。
わたしが、夫に三下り半を叩きつけられる覚悟を持ったまま死出の旅路に出ることになるのか、まったく予期せぬ理由で嫌われることになるのか、はたまたわたしの心配は全くの徒労に終わり、いつかこの覚悟を胸に刻んだことすら忘れてしまうのか。
先のことは、分かりません。
でもきっと、わたしが夫を嫌いになるシナリオにはならないと思います。
いつか自分のあまりの飽きっぽさに自信を揺らつかせていたわたしが、今や確信しています。
「根拠のない自信」って、こういう感じか。
性別や属性すら超え「生き物として好き」と豪語できる人と人生を共にすることでわたしは自分の人生にすっかり満足していて、My Wayを布施明ばりに歌い上げられるくらいの心持ち(※イメージ)なので、この先どういう道を辿ったとしても乗り越えられる、ような気がするのです。
…
まぁ、とか言っておきながら実際「別れたい」なんて言われたら、泣いて激しく動揺して地団駄を踏んで大騒ぎする、のかもしれませんけれど。
そのときはまた、そのときですね。
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