もう、笑えないよ
若い頃、とんねるずやダウンタウンのバラエティー番組を爆笑しながら見ていた記憶があります。
キャッキャしている兄とわたしを尻目に、祖父が「くっだらねえ」と言っていた苦々しい顔も口調も覚えていて、こんなに面白いのになんで分からないんだろう、楽しめないなんてかわいそう、と思っていました。
それが今や、わたしはどちらかというと当時の祖父(60代)寄りです。
バラエティーで誰かの発言に対して大袈裟に笑ったり驚いたりしている芸人の方々を見ては、笑いどころが分からない…と首を傾げています。
歳を取ったことで流行から絶賛取り残され中、というのも勿論あります。
でもたぶん、世の中が単一の価値観では語れないことを知ってしまったから、という理由も大きいのではないかなと思っています。
いつからか、笑いの一種として確立されていた「いじり」。
美醜や頭髪や肌の色などの見た目や、出自や慣習や能力の有無、その他諸々の多数派と異なる部分を笑う、という悪しき文化。
それが「悪しき」ことだと知らなかった頃、わたしはそれを純粋に楽しんでいました。
バカじゃないの!変なの!と笑えていました。
でも今、そういう笑いを見ても
「嫌な気持ちになる人がいるんじゃないか」
「これはハラスメントに当たるんじゃないか」
などという考えが過って、面白いと思えなくなったのです。
バラエティー番組は、だから基本的に見るのをやめました。
(「阿佐ヶ谷アパートメント」だけ見ています)
何を見るか見ないかは選択可能なのだし、嫌な気分になる可能性の高いものを敢えて見る必要がないからです。
明日の教室で話題に付いていけないかもという懸念も、もうないし。
大人、万歳。
ただ、最近困っているのは「古典を読めなくなってしまったこと」です。
いや、古典どころか、20年前、10年前の作品すら怪しい。
女性が不当な扱いを受けていたり
マイノリティーへの配慮が欠けていたり
差別語が使われていたりするからです。
物語とはさほど関係ないところで引っかかってしまって、先に進めないのです。
でも、作者だけが悪いわけではありません。
男社会で女性が冷遇されるのは当然だったし
マジョリティーが絶対的な是だったし
差別語を差別語と認識していなかった。
社会全体がそうだったのです。
常識そのものが今と異なっていたから、その時代の常識にどっぷり浸かっていた人々を今の常識で測ると全員差別主義者になってしまうだけ。
わたしだって、そうだったし。
不可逆。
何も考えずに無自覚に笑えていた時代は、もう戻ってきません。
昔は好きだった本、面白いと思っていた芸人さんや番組を、わたしはもう、楽しめない。
あの日は遠く過ぎ去ってしまいました。
一抹の寂しさはありますが、それでもわたしは昔のわたしより、今のわたしのほうが好きです。
戻りたくは、ないのです。