静かに「静かな退職」をしてただけ
若年層を中心に、「静かな退職」という働き方が注目されている、そうです。
最近の若い奴は…
という嘆き節が聞こえてきそうな話、ではありますが、わたしはこの概念を初めて知ったとき、思わず「分かる」と呟いたものです。
10年ほど前、営業成績と未来の展望と前向きな成長の押し付けに疲れ果て、事務職、しかも一般職の働き口を探したわたしが求めていたのは正に「精神的な余裕」。
わたしには将来の夢などありませんでした。
成績も、展望も、成長も、求められても困る。
どう捻り出そうとしても、無いものは無いのですから。
…かと言って、生きること、働くことに絶望しているわけでもありません。
夢も希望もないけど、毎日楽しい。
それじゃだめ?なんでだめなの?
コジコジはコジコジだよ
そう思いながら生きてきたのは
わたしだけではないはず。
わたしのような「静かな退職」希望民は、実は太古の昔から存在していたのではないか。
大手を振って言えなかったから、広く認識されていなかっただけなのではないか、と思うのです。
子どもがかわいいと思えない、とか
母性本能とか分からない、とか
子どもを持って後悔してる、とか
同じ感じなんじゃないか?
例えばかつて「窓際族」と呼ばれた人たちは、そのポジションを全員が心から、不当に感じていたのでしょうか。
閑職で日がな一日することもない、やりがいもないし頼られもしない、ないない尽くしだけれども給料は出るって…
最高ではないですか。
満帆商事株式会社の総務部庶務二課課長とか、楽しそうでしかない。
昇進もしないし部下も増えないし権限も与えられない、けれど生きていくだけのお金は貰える場所でゆらゆらと騙しだまし働く人は、目立った場所でキラキラ輝く働きマンやバリキャリの陰にひっそり、でもある程度の人数を保ちつつ生息してきたのではないか。
静かに「静かな退職」をしていただけなのではないか。
彼らは令和に忽然と現れたのではなくて、元々いた人たちの存在が可視化されてきただけなのではないか、と思うのです。
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