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他者に期待しない

最近、他者に必要以上に期待しなくなってきた。
全く期待しなくなったりはしていない。
やっぱり、自分の欠けた穴を埋めてくれる存在が欲しくなる時もある。
不安がゼロにはならない、けど、抱え込むではなく、抱えていられる感覚。
景色を眺めるみたいに、「ああ、今は私不安なんだな」と、思うくらいに留まっていられる。
誰かや何かにしがみつかなくても、私は私でいられる。
最後の最期、その時まで。多分。

不明確なことを、闇雲に追いかけたり、嫌ったりもしなくなった。

フラットな感じ。
凄く希望に満ち溢れているかというと、別にそうでも無いけど、朝焼けくらいに日が昇ってる感じ。

足りない自分を認められるし、足りなくても、別にいいじゃないと、思える。

私が出来ないことは、誰かがやる仕組みだし、そうやって、人と人はなんとか共存することで、成り立っている。
それに、私が出来ないことを、他の誰かはやりたいかもしれない。他の誰かが出来ないことを、私は出来るかもしれない。

やっぱり、子供の頃に感じてた違和感とか、思ってた事って、そんなに間違っていなかったじゃん?と、最近思う。
だから、目上の人の言うことも、リスペクトして最もだねと、思いつつ、子供や若い人の言う言葉も、一理あるよな…と、耳を傾けられるようになった。

みんな、誰かにちゃんと自分の話を最後まで、理解して受け止めて、聴いてもらいたいという、欲求がある。
それに、私は痛い程、共感するし、できるから、人の話をなるべく最後まできいていた。
でも、最近は、キャッチボールが上手くいく人とだけ、ちゃんと話すという方法に切り替えた。
「自分が自分が…」
と、私の話を最後まできくことなく、私を蔑ろにする人は、誰であっても、私と利害が一致してるとかそんなのじゃない限り、受け取らないことにした。
ハッキリ断ると、さも惨めそうに同情を引くように、表情や言葉にして、見捨てないでくれみたいなそんな素振りをする人もいるけど、ずっとそれに付き合ってしまったら、私の方が惨めになる。
その人との間で、傷つきたくないし、傷つけたくない。
だから、会った時に挨拶くらいはしても、積極的には話をきかない。「疲れるから…」と、丁重にお断りすることもある。

もう、それでも良い。嫌われるかもしれないけど、それでも良い。
そういう場合、その人とは縁が無かったんだ。

一緒にいても、寂しいはある。その人は、私に話しかけてるようで、常に、私のことは視界に入っていない。
そういう人達と、どうして関係を深められようか?

別に、ギブアンドテイクをデフォルトにしたい訳では無い。

ただ単純に、私に興味関心の無い人に、興味感心がわかない。
私が全く何も見返り無しで、好きだと思う人というのは、俳優とかミュージャンとか、クリエイターとか作家とか亡くなってる表現者とかそんなので、凄く遠い人達。そういうのは、もう神様みたいなものだから、それはそれだから。
私が一方的、尊敬したり憧れてるだけの人達は、仕方がない。
でも、それでもそれは、私がその人たちを好きでい続けるかどうかは、私が主体的に決める。

波長が合えば、それはそれだし、そうじゃないなら、それもそれ。

誰かに、決められるんじゃない。

私が大切にしたい人であるか、私も大切にしてもらえるか。
思い通りにしたいとかよりも、互いに、互いを思いあえて、ちゃんと共通言語や共通認識を持ち合うことができるか?

折り合える余白があるか?譲り合える余裕があるか?一緒に過ごして、安心できるか?
互いに、酸素不足になったりはしないか?
それを確かめ合える関係を作れるか?

それが出来ないなら、名ばかりの友達や家族や仲間はいらない。
形や数なんて、世間体とかの上辺でしかない。
わかりやすい象徴なんて、信用ならない。

美しく魅せる技術ばかり得意になりたくない。

真に、美しい友愛や家族愛、仲間に対する思いやり、慈しみが無いなら、私は、多少孤独になっても良い。

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