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被虐待児から大人になってみて思うこと

私は、色々あったせいか、小学校の中学年くらいの頃からか、不完全ではありつつも、変に大人びて達観していて「子供らしさ」を母親の子宮に置いてきたかの如く、大人しくも冷静な面を持った子供だった。

だから、反動で今、子供っぽいというと可愛らしいが、妙に大人げない時もあって、年齢不詳な感じに見られる。
子供が居ないのもあって、子の居る親の気持ちは想像は出来ても、根本的には真に理解し得ないだろう。

それに対して不満は無くて、自分を卑下もしていない。
生き方とかは人それぞれだし、確かに夫と結婚当初は、減薬を試みて、妊娠に向けてチャレンジしてみたこともあった。けれど、あまり上手くいかなくて、そういうのを乗り越えてまで、子供が欲しいか?と、問われたらあまりよくわからなかった。
生まれたら、それはスタートしてしまうし、決して引き返すことは出来ない。
自分たちで育てるにしても、そうじゃない選択をするにしても、やはり引き受ける責任は重いだろうな…という気持ちの方が強かった。
子供を育てる大変さと引き換えに得るであろうモノは、すごくたくさんあるだろうけど、重たい覚悟を乗り越えることで、承認欲求の強い私が、子供に対して生まれて生きている、それだけで許されてる存在に対して必要以上のものを背負わせてしまいそうで、正直怖かった。

アダルトチルドレンであることは、気づかない事ははそれはそれで苦しみの理由がわからず、悩ましいが、気がつけば気がついたなりの、悩ましさはある。

回復はしても、人間なんて完璧でもないし、愚かなので、子供を通して満たされ無かった自分自身のインナーチャイルドとも向き合うことになるし、私は女なので産みの苦しみも、産後の疲労も出るし、ベースの精神疾患のせいで、産後うつや育児疲れに陥るリスクは、健常の母体より高いだろう。

医療や福祉を上手く使って…ってのも、どこまでか…?っていうのは、なかなか難しい。
際限なく使えるわけでもないし、自分にフィットしたサービスなどを受けられるかは、賭けでもある。

そして、そもそも、そもそも、私は私の血を分けた子供が欲しいのか?夫の遺伝子をそこまで残したいのか?(もちろん、夫のことは心から好きだし愛している)
目の前の人を愛することと、子孫を残すことは、イコールなのか?
当時、頭がグルグルした。考え過ぎなのかもしれない。色々と、知ってしまったせいで、機能不全のことで、学べて、回復してホッとはしても、その先の未来に子育てする自分にリアリティが無かった。

親の犠牲になってきた人生をやっと生き直したばかりなのに、今度は、子供の犠牲に自ら進んでなるのか?と、ふと過った時点で、もしかしたら、自分の子供を愛しきれないかも知れないと思った。

そんなふうに思うなんて、悲観的かも知れないし、もっと前向きに、やってもみないで、予期不安に病んでるだけだよと言われれば、それを否定は出来なかったけれど、当時30代半ばの私は、少しずつ子供の居ない未来の方を考えていた。
夫にも、もちろん相談した。
正直、彼はそういう母体の負担にすごく疎いし、子供なんて性交渉すれば簡単に自然に何とかなるもの…くらいにしか、知識がない。
そういう夫への妊娠・出産も含めた大人の性教育を受けてもらうよう、促すのもすごくめんどくさいと思った。
それに、すごく欲しがってる様子も無かった。
だったら、精神的にも肉体的にも私に負担がかかるステップを無理に上がるのは、止めたいと思った。

誰かが「子供が出来たら夫も変わるかもしれないよ」とか、言ったが、現実的じゃないと思う。
母親だって、きっと最初から母親に成れる訳じゃなかろう…もし、最初から母親ならば、幼児虐待なんて女はしない。でも、現実は起きている。私の母親は、私を虐待父からなんとか救い出してくれたけど、余裕の無かった時には、申し訳無いが、ネグレクトされていたと思う。事実として。(母親を責めたい訳では決してない)

みんな、子を育てながら、親になろうと少しずつ努力した結果なんだと思う。
子供に「パパ」「ママ」「お父さん」「お母さん」と、呼ばれ続けながら、自覚していくんだと思う。

それくらい、子供とは、生命とは重くて、そして時間をかけて大きく成長するものなんだと思うから、私は暴力や暴言や、不安や恐怖を自分が産むかも知れぬ子供に、しかも愛する夫の子供に連鎖させたくなかったし、引き継ぎたくなかったし、自分の人生の問題の負荷をかけたくは無かった。

夫のことを本当に愛しているから、産みたく無かった。
夫の遺伝子を傷つけたくなかった。

「あなたはそんな人間じゃない」
と、誰かは言ってくれるかも知れないけれど、私が自分の子供を精神疾患を患うほどに、傷つけたりはしないと、誰が保証するのだろうか?
その可能性は、零にはならない。

誰しもが、そうかもしれないけれど、先ずは、私は目の前の愛する夫と、自分自身を思う存分愛したいと思った。

そして、母体に時間は限られている。

男性よりも、妊娠出産するための機能は、時間が無い。

だったら、変に希望を持って負荷をかけるよりも、折り合って、自分たちのこれからを謳歌する方が幸せだと思った。

直接、生命を産み落とすだけが、社会貢献では無いし、ましてや、幸せのカタチでもない。

心が喜ぶ方へ進めば良いと思う。

ある人は、こんな私を可哀想とか思い込むかも知れないが、産んでも産まなくても、その選択に苦労があっても無くても、別にトータルで、その人生の主役たる私が、満足していれば、別にそれは悪いことでは無い。

産んだが為に悩ましい問題を抱える人も少なくは無いし、そういう人を私は何人も知っている。

子供を愛せない親は、極悪非道なのではなくて、自分自身を上手く愛せない状況にあるからなのだと思う。その人1人だけの事ではなくて、貧困であったり、望まない妊娠であったり、まわりの理解の無さであったり、教育や知識の乏しさであったり、病気や障害など…多岐に渡る。(それらの不幸な要因がいくつも重なってしまう場合もある)

とくに、母体(女性)は、常にホルモンバランスと共にある。肉体疲労やストレスによって、情緒不安定になってしまいやすかったり、育児をする上で協力者(主に父親だが、それに限らず)に恵まれ無い状況に陥り易い。
社会的にも、まだまだ男性よりも給与が安かったり、男性ほどは働けない等もある。
それが、現実だ。

だから、被虐待児として育ってきたからといって、子供の虐待する親たちを、憎みきれるか?毒親などと言って切り捨てられるかというと、私はどうもモヤつく。
したことは、許されてはならない。絶対に。
当事者同士は、それは許す必要はない。

けれども、ふと、外側に立つと、アレ?と思う。
本当に、親だけが悪いのだろうか?
もちろん、子供には絶対に罪はない。
けれども、子育てを取り巻く環境なり、理解なり、社会がまだまだ整っていないのでは無いのだろうか?

私たちは、その子供の親にだけ、責任を課してはいないだろうか?

確かに、生み育てた両親の子供かも知れない。
けれども、子供が生まれて育って行かなければ、人類は…
子を産まない、持たない私が言うと、どこか矛盾もあるかもしれないが…
子供とは、保護者の所有物ではないし、彼ら無しに、社会は回って行かないのが現実なのだから、同じ人間社会の仲間として、大切に迎え入れ、大切に育てるべき存在なのではないだろうか?
だから、自分の子供でなくても、ある程度社会性が身についたら悪いことをしたら、誰かが上手く言って、叱る(注意、指摘、説明するなど)だろうし、色々と知識を教えたり、素晴らしいことをしたら、褒めるであるとか、ありのままを受け止めるであるとか、優しさのおすそ分けをしたりするのではないだろうか?
仲間なのだから。

そっと見守る、任せるというのだって、子育て(人育て)の立派な役割である。

そういうことを、色々な人が色々なカタチで、少しずつしていけば良いと思う。

できる人ができる場面、できるタイミングで。

子育ては、社会育てだと思う。

だから、私は、ヒトの子の幸せを想うし、そういう風に育つ子供が増えれば良いなと思うし、子供を産んで育てた人達に「子供を産んで育ててみて良かったな」と、心から思える社会であって欲しいと願う。

ヒトと自分を比べて、嫉妬していても、何も面白くは無いし、子供のいるいないで、マウントを取り合うのも大変違和感がある。
私は、目に見えるカタチで、わかりやすい幸せなんて、無くても良い。
自分たちや大切に想う誰かが、心から幸せな日が多ければ、それで良い。

どっちがどうとか、上も下もない。

時には、心が疲れて、他人と自分を比べてしまう時もあるかも知れないけど、今はそれはどうでもいい。

私は特別不幸でも無いし、特別に誰かに羨ましがられるような幸せのカタチを持っている訳でもない。

ごくごく、普通なんだと思う。

道端の雑草の花をキレイだな…と、思うくらいの日常の幸福。

でも、たまにはちょっと高くて、美味しいご飯を食べたいであるとか、キレイな服を着てみたいと思う欲求。

誰かの反応や顔色で、一喜一憂せずに済む安心さえあれば、別に、普通なのだ。




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