愛と宿題は、きっと私を強くする:神沢利子『くまの子ウーフ』を読んで
まるで、くまの子みたいだった
くまの子ウーフの本を手に取ったのは、私のすきな男の子にウーフが似ているからだった。
まっすぐで、手足がむちっとしていて、食べることが大好き。動物に例えるなら、間違いなく小ぐま。
その子はもちろんはちみつはなめないけれど、ごはんを食べているところが可愛い愛らしい男の子だ。
だから、純粋に興味が湧いた。オタクの私は、推しに似ているものを見つけるとすぐに手に取り、それがエンタメならばすぐに履修しようとする。ウーフの一つ前はくまのプーさんだった。
そんなちょっと邪な気持ちで手に取ったこの本から、沢山のたからもののような気持ちを受け取ることになることを、この時の私はまだ知らない。
なんでなんでおばけは、時にどきんとさせる
「どうして綺麗な蝶々を殺したら泣くのに、蟻を殺しても泣かないの?」
子どもの頃の私にそう質問してみたい。果たして私は、何と答えるだろうか。
大きさの差?見た目の綺麗さの差?どれも、大人になった私の回答に過ぎない。
私は小さい頃、なんでなんでおばけだった。
どうして葉っぱは秋になると赤くなるの?どうして私は幼稚園に行かなくちゃならないの?どうして、人は死ぬの?
母は、そんなわたしのなんでなんで攻撃を無下にすることなく、根気強く向き合ってくれた。
この本の主人公、くまの子のウーフのお母さんとお父さんも、ウーフの素朴な疑問をウーフごと抱きしめて柔らかい真綿でつつんでくれるような、あたたかいふたりだった。
子どもの「どうして?」は、時に大人をどきんとさせる。人間の味覚がどんどん退化することにより大人がビールを美味しいと思うように、感覚だって子どもの方がずっと鋭いのだ。
「へえ、ウーフ、こないだ、ぼくと、とんぼとってあそばなかった?」
ツネタは、へんな顔をしました。
「あのとんぼ、はねがもげてしんじゃったけど、ウーフ、なかなかったよね。どうして?」
「しらない…」
と、ウーフがこたえました。
「こないだなんか、おしりでてんとうむしつぶしたよ。ウーフ、ははあなんて、わらってたじゃないか。」
「……しらない……」
と、ウーフがこたえました。
「へんなウーフ。さかなも肉もぱくぱくたべるくせして、は、ちょうちょだけ、どうしてかわいそうなの。おかしいや。」
「くまの子ウーフ P70-71より」
わたしが子どもの頃、お友達にこんなことを言われたら、たぶんウーフと同じ答えになってしまうと思う。大人は、語彙の鎧で武装してそれっぽいことを並べることができるけれど、子どもは正直だ。ツネタだって、きっとほんとうに疑問だったんだと思う。
ウーフの「知らない」という答えも、1度目と2度目で三点リーダーの数が変わっている。きっと、ウーフなりに考えて考えて考えても、出てこなかったのだ。自分が殺してしまったちょうちょと、おしりでつぶしてしまったてんとう虫との違いが。それで、コップ一杯に溜まった名前のつかない感情が決壊し、余計に涙になって溢れた。
きゅうっと、心臓を掴まれたように切なくなった。
ウーフはその後、お供えのドロップにたかる蟻をぺろんと舐めて目を丸くする。なんでウーフは目を丸くしたんだろう。ただ、口の中でうごめく蟻に驚いたわけじゃなさそうだ。
この話だけじゃなく、『くまの子ウーフ』は、一つのお話を読み切ったあとに読者に何か考えることを与えてくれる。まるで、ウーフが私たちに与えてくれる宿題みたいだと思った。
うーふーとうなるから、ウーフ
ウーフは、何でウーフという名前なのか。それは見出しにもある通り、うーふーとうなるから。
もう、名前の由来から抱きしめたい。いとおしい。
そんなウーフの毛はきっと少し硬くて、もしゃっとしていて、それでいてとってもあたたかいんじゃないかな。体からはちょっぴりはちみつのにおいもするかもしれない。
もちろん本には匂いも温度もない。でも、そう感じられるような、いとおしい描写がこの本にははちきれんばかりにつまっている。
「うーふー、うれしいな。ぼくはしたがあるから、はちみつがなめられる。手があるから、おかあさんにだっこもできるよ。ああ、ぼく、よかったなあ。くまの子でよかったなあ。」
「くまの子ウーフ P70-71より」
ウーフは魚みたいに早く泳げないし、ハチみたいに空を飛ぶことも出来ないけれど、だからこそできることがある。
金子みすゞの詩でもうたわれている「みんなちがってみんないい」の精神を、この時ウーフは大好きなお母さんと一緒に理解したのだろう。ウーフのお母さんのように、ウーフのことがいとおしくて、可愛くてたまらなくて、可愛さ余ってちょっと泣いた。
ウーフは、どうしてこんなに可愛くていとおしいのか。それは、ウーフの中にある確固たる自己肯定感にあるのかもしれない。
ウーフはきっと、これまでお父さんとお母さんに否定されず、すくすくと育ってきた。たくさんのどうして?にぶち当たりながらも、自分で考え、時には大人の手を借りながら成長してきた。
この本のストーリーは、人間のバイオリズムのグラフのような大きな浮き沈みはない。だけど、少しその場に留まって考えることで、世界はもっと新しい見え方をするんだってことを教えてくれる。
一人ひとりの働き方をすればいい
最後のお話で、ウーフのお父さんの好きな言葉がある。
「いいんだよ。ねずみは、ねずみ1ぴきぶん、きつねは、きつね一ぴきぶん、はたらくのさ。だれのなんびきぶんなんかじゃないんだよ。おとうさんはくまだから、くまの一ぴきぶん。ウーフなら、くまの子の一ぴきぶんさ。みんなが一ぴきぶん、しっかりはたらけばいいんだ。」
「くまの子ウーフ P131より」
1匹がきっちり1匹分の働きをすること。それ以上でも、それ以下でもない。力の大小で、誰かの倍働かなければ、なんて考えなくてもいい。
これはきっと、働くようになった大人の私だからこそじんわりと心に沁み渡ったのだと思う。
そのままのあなたでいいんだ。
この本を通して、私はそんなメッセージを受け取った。自己肯定感の低さが叫ばれる昨今、もちろん私も例外ではない。「大人に読んでほしい」と言っていたポプラ社さんの意図が、少しわかった気がする。
子どもは、いつまでも子どもではいられない。逆に大人だって、誰もが昔は小さな子どもだった。大人にとっての当たり前は、子どもにとってはそうじゃない。その反対も然りだ。「子ども」と「大人」って、何なんだろう。
名作『星の王子さま』を読んだ時にも、同じようなことを考えた。大人にばかにされたへびにゾウが丸呑みにされている絵を、王子さまが認めてくれた時。
ウーフと両親の関係性にも、飛行士と王子さまの関係性にも、共通しているもの。それは肯定するということだ。
人は、肯定されると以前の何万倍もの力を出せる。
これから私は自分自身のことも、周りの人たちのことも、たくさんたくさん肯定という名の愛で包みたい。ウーフのお父さんとお母さんみたいに。そしたらどこかで、ウーフが笑ってくれる気がするから。
かわいいウーフからもらった宿題と愛は、きっと私を強くする。
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