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無になれと、無になる。似て非なるもの。
日々の生活や仕事の中で、なんで?と感じたり、イヤだなぁと思ったり、イライラしたり、そんな自分に落ち込んだり。そんなことは無い方がいいけど、無いわけなくて。
そんな中、特に仕事で聞くことが多い気がするのが、「無になってやるしかないね」「無になってやってみれば?」という言葉。
これ、いつも不思議に思う。そこは無になるところじゃ、ないよね。
イヤな気持ちになることや、理解できないと思う気持ちとか、腹が立ってしまうこととか。そういう事に対して無になってたら、自分のことが分からなくなる。
自分の中で、自分自身に対して、「こうだよ」「そうだよね」というような、感情のやりとりを無くしてしまってはいけないのでは?
無になってやるしかないとは、つまり心を無くしてやると言っているわけだけど、ネガティブな感情が起こる事柄に対して、心を無くして向き合わなきゃいけない事なんて、どこにも無い。
しなきゃいけない事は有ったとしても、心を無くしてしなきゃいけない訳じゃない。
イヤイヤやる、という意味ではなく、
気持ちのいい感情ではないけれど、イヤなことをイヤだとちゃんと思うから、自分がどういうことに対して苦痛を感じるのか認識していけるのだ。
イヤなことをイヤだと思うから、「じゃあどうしたい?」の気持ちもわくし、次の行動につながっていくのだ。
だから、イヤなことに対して無になって向き合うとか、無になってやるなんて、やっぱりおかしい。
必要なのは、苦痛に対して「無になれ」という周りからの助言らしきものではなくて、自発的で積極的な「無になる」時間だ。
なんでもいいけど、出来れば単純作業。好きなこと、今したいこと。
没頭してる時間は、まさに無になっている時間で、それがストレス解消になったり、自分を癒してくれたりする。
集中の後の解放って、とってもスッキリして気持ちがいい。
「無になれ」は不要。「無になれる時間」は必要。似てるようで、これ、全然違うから。