ツンデレのツンは、もはやハラスメントという話〜アニメ考察〜
天久鷹央の推理カルテの1話を視聴しました。
"知念 実希人先生"と"いとうのいぢ先生"のコンビらしく、知念 実希人先生は子供向けミステリー小説も書いていてうちの子も読んでいます。
自分の記事では初めて否定的な内容を含むのでファンの方は読まない方が良いと思います。
ただ、この作品に感じた違和感は言葉にしてみたかったので記事を書き始めました。
1.ハラスメントの境界線
小柄の可愛らしい天才女医が登場して1分。患者に対していきなりタメ口であり、初対面の患者のことを"おまえ"と呼びだしました。
ちょっと違和感を持ちながらも、見続けます。
しばらくするとその美少女の女医が、亡くなったばかりの遺体の前で目を輝かせて高笑い…面白い!と一言放ち、ここから事件の推理が始まるのですが…。
このシーンで違和感のピークを超えて嫌悪感に。
"これは表現のひとつ"と頭で理解しようとしてもどいまいち入り込めません。
美少女だから?
医者だから?
これがもし爺さんだったら?
…もし爺さんだったらプライドの高い暴力的な医者として、まあ見れたかもしれません。
ということは自分が若い女医に対して偏見があるのでしょうか?
それとも爺さんなら暴力的でも仕方ないと、爺さんに対して偏見があるのでしょうか?
どうであれ、この性格が後の伏線になるにせよ、余計な事ばかり気になり、もう見る気がなくなってしまいました。
2.涼宮ハルヒの憂鬱が色褪せる
これに似た体験があります。
大学生の時に見ていた"涼宮ハルヒの憂鬱"
涼宮ハルヒの憂鬱をきっかけにアニメを見る様になったくらい大ファンであり、放映当時何度も何度も見返して台詞も覚えてしまうくらいでした。
なのにあれから20年近く経って今見ると、ハルヒが不快感でしかなくなって…。
あれだけ恋焦がれたツンデレのツンが、キツい。キツすぎる、ドン引きです。
朝比奈みくるをパソコン部の部長に売りつけようとする所など、今見ると一線を超えていて。
見返さなければよかったと思う程の思い出破壊。
確かに当時も2ちゃんねるには、"あんな乱暴な女何が良いんだ?"的な書き込みはあったかもしれません。
それに対して"わかってないなー"なんて思っている自分が居ました。
当時の私は一体何をわかっていたのでしょうか…笑。
私が歳を重ねたから?
それとも、時代の流れ?
時代だとすると、今の子達は一世を風靡した"涼宮ハルヒの憂鬱"を純粋に楽しむことができなくなってしまっているかもしれません。
どうなんでしょうか?意見を聞いてみたいです。
今の私にはハルヒは一線を超えて、ジャイアンと同類に見えてしまう。
いや、正しくは昔のジャイアンと同類です。
子供と見る2025年版ジャイアンは、立場をわきまえており、空気を読めているのです。
ジャイアンはもう映画じゃなくても優しい。
ここ20年の日本では、表現がそれほど規制されたとは思えません。つまり、作り手はまたハルヒを作ってもなんら問題ないのです。
だが悲しい事に視聴者側が空気を読み自主規制をしてしまう。
そもそも、今回取り上げた天久鷹央シリーズも調べてみたら2014年からと言うことで10年前になるわけです。当時の私ならそういうキャラとして受け入れていたかもしれません。
ハルヒだってツンデレというキャラがダメなわけではなく、行き過ぎた行動が嫌悪感を生むのです。
2010年では許容範囲だった行動も2025年時点ではダメ。
時代がハラスメントに厳しくなったせいというよりは、様々な迷惑系インフルエンサーがネットで可視化されて、ハルヒのネタ的な行動に妙なリアリティが生まれたという影響もあると思います。
3.無自覚な暴力
もう少し深掘りします。
この嫌悪感の原因に名前をつけるなら
"無自覚な暴力"
と思い浮かびました。
暴力映画や残酷なアクションはなんなく見れるのですが、無自覚が加わると嫌悪感に繋がるのだと感じます。
世に蔓延るハラスメントも無自覚な場合が多いです。無自覚なセクハラやパワハラほど、気持ち悪さを感じるのではないでしょうか。
そして、その無自覚さは、受け取る側が感じることなので、本人の自覚の有無と言うより、"この方は周りのこと考えてないなあ"と言った具合に受け取り側の許容範囲次第であり、それこそが空気に繋がるわけです。
4.まとめ
いくら表現の自由が認められても、大衆がその表現を受け入れられなければ埋もれてしまいます。
たった10年程度で変わりうる大衆の空気。
それをツンデレのツンから感じました。
(私だけかもしれませんが…)
歴史を通じて共通する普遍的なテーマの物語が重要視されがちですが、逆にこの時代でしか感じ取れない、普遍的なテーマの周りにある時代の空気を如何に物語として残すかも重要なのかなと思います。
それは時代が変わってしまえば、陳腐なモノ、取るに足らないモノとされてしまいますが、歴史は繰り返すのでまたいつか、価値が再発見されるかもしれません。
今を生きる我々にしかわからない空気。
それは10年後には忘れ去られ、しかし何百年後に再発見されるかもしれない空気。
フワッとした感情論ばかりで申し訳ないですが、時代が変化する真っ只中で、その変化を言語で説明するにはまだ早いと思います。この2020年台のの空気が終わった数十年後に、歴史の流れとして考察されるのでしょう。
説明的にならずに感情論のまま、現代の空気を感じ取るのに相応しいのはやはりエンタメ、特に小説だと思います。
そんな貴重な"現代の空気"とはなんなのか?
小説家である朝井リョウ先生の作品は、まさにその"空気を読む時代"を作品のテーマにしていることが多く、現代の空気を考えるにはまず朝井リョウ先生の作品を考えるのが良いと思います。
"桐島部活辞めるってよ、何者、正欲"といった映画、小説を読みましたが、また時間があれば空気をキーワードに感想を書いてみたいと思います。