恵まれてるから生を喜べない
母と夕飯のテーブルで散らかった皿をそのままに何故か死生観について語っていた。
わたしは中学生頃からずっとうっすらと死を意識しながら生活していて、死という概念に慣れているつもりで、怖いという気持ちはあんまりない
「わたしは死は怖くないけど、死ぬプロセスが怖い」
と言ったら母に
「わたしは死ぬのがこわい。だって、わたしは今まで55年間、長く感じるかもしれないけど、たった55年っていう短い年数しか生きていなくて、生は精々100年程度だけどそれに対して死は無限、永遠なんだよ。
一回死んだらそれきり。永遠に死んだまま。今まで感じたこと、触ってきたもの、あなたの存在、わたし、全部がなくなってしまう。」
と返された。母は英語で話すのでざっとした和訳だけれど、
その永遠という単語がなんだか重く、怖く、得体のしれない黒い渦のように感じてわたしは怖くなって涙が出た。
他にも資本主義、共産主義、もっと平等な世界の話をしていて、わたしは恵まれていない人がいるから、貧困があるから人は頑張れるし全てが平等に分け与えられた世界では人は向上心をなくすと思う、生きている意味がわからなくなってしまうのでは、というような話をした。
わたしは最近とても気分が落ちていて
今すぐ死にたい!というわけではないけど
なんだか、なんで生きてるのかな、みたいな、わけわかんないな、って気持ちになっていて、でもこの会話を通して1人で考えるときには辿り着かなかったことに気がついて、
ずっとわたしは人並み以上に苦しくて死にたいんだと思っていたけど
本当は特段に苦しんでいる人間というわけではなく、ただ未来が見えなくて、特にしたいこともなく、諦めるようになって、向上心とか未来への期待がないから、生きているのが苦しいのかなって
わたしは恵まれていて、年齢のおかげでもあるけど衣食住すべて努力しなくても揃った環境にいて、生は努力をして手に入れたものじゃないから感謝ができていないのかな、と思った
最近死にたさとか鬱が割と一般化してきて、スマートフォンとかSNSの影響もあると思うけど、この豊かすぎる、便利すぎる世の中のせいでもあるんじゃないかな
みんながみんな生きるのに必死だったら、命をもっと尊いものとして扱えたら、つまずいてしまってもすぐ死にたい!にならないんじゃないかな
去年の冬、一回ガンかもしれない(大丈夫だった)ってなったときに、その時期死ぬほど病んでたはずなのに、癌かもしれないってなったらほんとに死が怖くなって1人でどうしようって泣きながら渋谷駅を歩いたことを思い出して、死が現実的に近づいたときの怖さを考えたらやっぱりわたしは死にたいわけではなくて、死が遠すぎる場所にあるからこそ安心して、死にたいとか思えちゃうんだって思った
達観したつもりになってバカみたいに死にたいと繰り返す前に自分の持っているものに感謝できるようにしたい