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私がお金のブロックを外せそうだと確信した日のはなし
10代、もしかしたらそれ以前から、私は母の言いつけでお小遣い帳を付けていました。
月ごとだったのか、週ごとだったのかは忘れてしまいましたが、定期的にお小遣いをもらって、文房具やお菓子を買う。
そしてその都度、お小遣い帳に品目と金額、残金を書き記していく。
私の中で、だんだんとその行為自体が心地よいことになっていきました。
2つ下の弟は、お小遣いから月刊漫画を買うことを決めていて、いつも同じ収支になるのでお小遣い帳を付け続けることはなかったようです。
母は、特別お金に厳しい人というわけではなく、むしろお小遣いとは別に一緒に買い物に行ったときに「いくらまでのお菓子なら一つ買ってあげる」と言ってくれるくらい、私たち子どもにお金を使ってくれる人でした。
お小遣い帳について、忘れられない出来事があります。
私は小学校4年生から、私は吹奏楽部に所属していました。
入部の理由は友達が入ったから、が主な理由でしたので、初めから熱意があったわけではなく、活動を続けるうちに、熱意がでてくるタイプでも無かったのですが、『辞める』という一大決心には至らないまま活動をこなし、先輩の陰に隠れているような子でした。
地区ではそこそこ名の知れた吹奏楽部だったので、遠征に何度も行かせてもらいました。その都度、母からお小遣いを別途渡され、昼食を食べたり土産を買ったりしていました。
ある遠征先での出来事です。昼食を食べ終わって席で待機していると、同級生から「お金落とさなかった?」とお金を差し出されたことがありました。
落とした記憶も無いし、財布の中を確認してみても、問題がなかったので「私のじゃ無い」と返しました。
その後バスの中で、なぜかお小遣い帳を持ってきていた私。なにげなくそのノートを広げ残金と財布の中の金額を確認すると、先ほど同級生から差し出されたお金の分だけ足りないのです。
そこで空気が読めないので読まない私は、同級生に「さっきのお金、私のだった」と言って返してもらいました。
今思えば、もう過ぎていること、どっちでもいいじゃないか、とも思えるのですが、お小遣い帳の残金が合わないことが、どうしても私の中では気持ち悪かったのです。同じバスに保護者も何人か乗っていて、私の母もいましたが、特に口を挟むでもなく、話を聞いていたように記憶しています。
私が大人になって家族を養う(我が家は共働きです)ようになってから、「お金が本当に無くて払えない状況にあるわけでもないのに、節約志向が強く、それがストレスになっている」と母に打ち明けたことがあります。
「お小遣い帳なんてつけさせたためにあなたがお金にシビアになりすぎたのかもしれない」と言われました。
その時は「それとこれとは別問題」と表面上は答えましたが、その後社会人になって結婚して家庭を持ってからも手書きの家計簿を付けているので、お金の四則計算は得意になった反面、お金は自分のために使うもの、といった認識が強くなっていったのかもしれません。
なお現在は、キャッシュレス決済になったことと、家族が増えこれまでのような細やかな記録を付けようとすると膨大な時間と計算ミスが頻発して精神上よろしくないので、これまでのやりかたは控え、大きな支出の記録程度に家計と向き合う時間は減らしています。
『お小遣いは自分のために使うお金』といった小学生の感覚から抜け出せないまま成長してきたので、自分のための贅沢や、必要だと私が思ったことには支出は厭わないが、子どもや夫の支出に関してはできるだけ抑える、支出にシビアなお母さんができあがりました。
*長くなったので続きは別記事にします*