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悪妻論
MLCで推奨されている『悪妻愚母』といった造語でYouTube検索してたら上記のサムネが目にとまりました。女性が朗読してくれるので聞きやすかったです。1947(昭和22)年7月1日に雑誌「婦人文庫 第二巻第七号」に掲載されたものですが、現代でもなお新しい感覚で読めました。
以下、私なりに現代的に要約してみました。
上のYouTubeを聞きながら、文字を追っていくと内容が理解しやすいと思います✨
とはいえ、堅苦しい文章になっているのはご容赦ください🫠
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悪妻には一般的な型はない。妻と夫の個性が混じりあって成り立つものである。友人の平野くん(僕らの仲間では大悪妻家と呼ぶにふさわしい)が、先日、両手を包帯で巻いていて、日本が木綿不足で困っているとは想像できないほどの物々しさであった。
肉がえぐられるくらいの深傷と言うが、彼は妻の横顔をひっぱたいたことすらないという落ち着いた性格で、容易に理解が及ばない。まさしく、愛猫家や愛妻家の心境は凡俗には理解のできないものなのだ。
性に奔放な彼の妻は、言うまでもなく彼を困らせる。困らせられるけれども、困らせられる部分で魅力を感じている夫が多いので、浮気な妻と別れた夫は、浮気な夫と別れた妻と同じく、おおむね別れた人に未練を残すものなのだ。
未練を残すなら別れなければいいのに、つまり、彼や彼女ら(迷惑をかけられている方)は、世間一般の悪妻とか悪亭主の型を守って、自分のことを省みて良し悪しを考えることを忘れる。男女関係において決まった型はないというのに。個性(妻)と個性(夫)が混じりあった先に加減乗除があるだけなのだ。先の平野君は、妻に包帯が必要なほどの傷を負わされていても、戦争での残酷な流血を呪い憎んではいても、妻を憎まず、包帯を巻かれていることに満足しているのは、さすが文学者。世の型とは一線を画している。偉大である!また、そうであるべきなのだ。
しかし、日本の夫は不幸だ。日本の女は愛妻になる教育を受けていないからだ。姑に仕え、子を育て、主に夫に愛情を注ぎ、物言わず家族に尽くすように訓練されている。
日本人を妻に、パリジャンヌを不倫相手に、という世界的な言葉があるように、彼女らは世界一の妻である一方で、夫はパリジャンヌを必要とする妻なのだ。
日本の女性教育は、日本の妻の型。要するに夫は妻に満足せず、外に女を作らせる性格になるように勉学させているようなものなのだ。
武家政治では恋愛禁止で、恋愛に関して若気の過ち以上の理論はされてこなかった。
恋愛に対する訓練を受けてこなかったから、手を繋いで町を歩くこともせずに夫婦となるから、男女関係は体の関係だけで、それはまるで動物の訓練を受けているようなもの。日本人の妻はわびしく、暗く、悲しい。
女学校で訓練を受けた模範的な妻が良妻か、または良妻に反して日本的な悪妻の型や見本があるなら、私はむしろ悪妻の型の方を良妻と断定する。
一般的な良妻は、洗濯、掃除、縫い物、炊飯、働くことができる丈夫なからだであることを心がける。
一方で悪妻とされる遊び好きな女の方が、魅力があるに決まっている。
多少の淫乱は夫として迷惑であるが、迷惑、不安、悩みもだえること、大いに苦しめられても、それでも良妻よりはいいのだ。
平和主義は大間違いで、平和・平静・平安、私は好きではない。
不安・苦しみ・悲しみ、そういうものの方が私は好きだ。
これは単に逆説を唱え弄んでいるわけではない。
人生の不幸・悲しみ・苦しみは嫌なもの、離れるもの、
と、決めつけて疑わない魂の方が不可解である。
地獄の悲しみ、苦しみは人生の花である。地獄の中でその花を咲かせ楽しむことを発見することは近代の発見といってもいいくらいだ。
恋愛はなんでもハッピーエンドが良いとされるが、失恋話の方がよっぽど退屈しない。本当に。
=途中割愛=
地獄の発見はこれまた近代の発見。地獄の業火を花咲かせよ。地獄も含めて人生を生きろ。ここで必要なのは本能ではなく知性だ。いわゆる良妻とは、知性なき存在で、知性がある女は悪妻となる。知性は人間性への考察である。思いやり、労りの気持ちが大きく深くなる一方で、衝突の深度も比例するので、気づいた時には動きが取れなくなっている。
人間性を省みることは、夫婦関係においては鬼の目のようなもの。弱点、欠点を知り合い、むしろ欠点に注目して関係や対立を深めるものでもある。どうにもならないほど憎しみは深まりそこには平和はない。
知性あるところ、夫婦の繋がりはむしろ苦痛が多く、平和は少ない。しかし、その苦痛こそがまことの人生なのである。苦痛を避けるべきでは無く、むしろ苦痛のより大きく、より鋭く、より深いものを求める方が正しい。
夫婦は、愛し合うと共に憎しみ合うのが当然であり、憎しみを恐れてはならない。正しく憎しみ合うのがよく、鋭く対立するのがよい。
いわゆる良妻の如く、知性なく眠れる魂の、良犬のように訓練された奴隷のような従順な女が、真実の意味において良妻のはずはない。そして、その良妻の附属品たる平和な家庭が、尊ばれるべきものでないのは言うまでもない。
男女の関係に平和はない。人間関係には平和は少ない。平和を求めるなら孤独を求めるに限り、坊主になるのがよい。出家は平安への唯一の道なのだ。
だいたい恋愛などは、偶然の産物であり、たまたま知り合ったがために恋し合うに過ぎない。知り合わなかったらそれまで。また、あらゆる人間を知った上での選択ではなく、少数の周囲の人からの選択であるから、絶対などというものとは違う。
その心情の基盤は極めて薄弱なものだ。年月が過ぎれば退屈もするし、欠点がわかれば嫌にもなり、外に心引かれる人がいれば顔を見るのもイヤになる。
それを押しての夫婦であり、矛盾をはらんでの人間関係であるから、平安よりも苦痛が多く、愛情よりも憎しみや呪いが多くなり、関係が深まるにつれて、むしろ対立が激しくなり、身動きがとれずどうにもならないこととなるのは当然なのである。
夫婦は苦しめ合い、苦しみ合うのが当然だ。慰め労るよりも、むしろ苦しめ合うのがよい。私はそう思う。人間関係は苦痛をもたらす方が当然なのだから。
ゼウス様は密通するなかれとおっしゃいますが、それは無理ですよ。
人の心は不倫するのが自然で、その心が思いあたらない人などいない。人の心には翼があるのだ。しかし、からだには翼がないから、天を翔るわけにも行かず、地上において夫婦となり、その上不倫するなとくる。
それば無理だ。無理だから苦しむ。当たり前だ。そういう無理を重ねながらの平安であるならば、その平安は偽物で、間に合わせの安物に決まっている。
だから、良妻というのはニセモノ、安物に過ぎないのである。
しかし、それならば悪妻は良妻なのかといえば、必ずしもそうではない。知性なき悪妻は、これは本当の悪妻だ。性への自制ができずに動物の本能だけの悪妻は始末におえない。しかし、それですら魅力でもあるので、それ故に未練に惹かれる人もあり、つまり悪妻というものには一般的な型はない。
もしも魅力によって人の心を惹くうちは、悪妻ではなく良妻だ。
いかに夫を苦しめても、魅力によって夫の心を惹くうちは良妻なのだろう。
魅力のない女は、これはもう、決定的に悪妻なのである。
男女という性の別が存在し、異性への思慕が人生の根幹をなしているのに、異性に与える魅力というものを考えること、そのきっかけを作れない女は、もしもそれが頭の悪さのせいだとすれば、この頭の悪さは問題外だ。
学問ができて才能がある人を才媛という。
数学ができても、語学ができても、物理学ができても、人間性の考察においてはゼロなのだ。
つまり、学はあるかも知らないが、知性がゼロだ。
人間性の考察こそ、真実の教養のもとであり、この知性を持たぬ才媛は、野蛮人、原始人、非文化人と変わらない。
まことの知性あるものに悪妻はない。そして、知性のある女は、悪妻ではないが、常に亭主を苦しめ悩まし憎ませ、めったに平安を与えることはないだろう。
苦しめ、そして苦しむのだ。それば人間の当然の生活なのだから。ただし、流血の惨はどうだろう?平野君、戦争は野蛮だ。戦争犯罪人を検索しようよ、平野君!
R7.2.22現在673回再生
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ちなみに私は、これからの行動を、はるか昔の昭和の時代に肯定してもらえたように思いました。※性的に、という意味では決してありません。