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41--「一冊の本」2500字           モントレーの山奥から心の叫けび


 親よりも、学校の先生よりも、私の人生を大きく教育してくれたのは、一冊の本のような気がする。 
いつも手帳のように持ち歩きたい、聖書を読むように読みたい本だった。 それは人に好かれる方法を書いた本である。
私はこんな本を中学校1年から、3年の終わりまで故郷喜界島で、心の中で求めていた。
探す事が出来なかったから、求めていたのであった。
1955年から1957年の頃の事である。
その当時、喜界島には本屋さんがなかった。
 私がこの本を見つけたのは大阪駅前の大きな本屋さんだった。
確か、旭屋書店だった様な気がする。
南の小さな島喜界島から大阪西区の西中学校に転向した中学3年生の終わり。
小学生の時はイジメをし、中学生になってからはしっぺ返しでイジメに会い、3年間苦しみぬいた。
イジメをし、イジメにあう、両方を経験したから、人一倍「人に好かれる」方法を考え続けていた。
とうとう見つけたか、やっと見つけたかである。
真っ暗い頭の中に明るい100ワットの電灯が付いたようであった。
店員の目を気にしながら、長い間立ち読みした。
フンフンとうなずく事がいっぱい書いてある。
本を買うのじゃなく、うなづく気持ちを買ったような気がしたのを今でもはっきり覚えている。
 小学生の頃、私は、正真正銘のフリムンだった。
同級生の中で一番の嫌われモンだった。
めちゃくちゃの根性悪で、村の小野津小学校入学から卒業までずーっと餓鬼大将だった。
目立ちがり屋で、負けず嫌いで、遊び、勉強、持ちもの、何でも友達に勝ちたかった。
自分より目立つ奴がいるとすぐにいじめた。
目立つ物を持っているとすぐに奪いとった。
もちろん気にくわないやつ、自分より弱いものは誰でもいじめた。
勝つために、目立つためには手段を選ばなかった。
3年生の頃、目立つために、女の先生のスカートもめくったこともあった。
先生はどんなに恥ずかしい思いをしたことか。
55年経ってから先生と連絡がつき、昔のことを誤った。
自分に孫が出来て、おじいさんになってから、小学校の先生に謝る、やはり私は変わった男であると自分でも思う。
 また、5年か6年生の時は男の先生の大事なところに触ったこともある。
私としては先生の大事なところのズボンにそーっと触れた真似をしただけと思っていたが、その先生は、握ったと言って、それは最高に怒り、私の右頬を思い切り拳骨で殴った。両親が慌てて学校へ謝りに来た。
今の世の中、
先生が生徒を殴って、奥歯までかけさせること、考えられない。
私の奥歯の2本は少し割れて欠けてしもうた。
欠けた奥歯の1本は老人になった今でも残っている。
餓鬼大将の頃の記念や、記念欠け歯や。
大事にしようと思うとります。
ここで亡くなられた先生や、同級生の皆さんに、深く、深くお詫びいたします。
どうか、お許しください。
すべてはこのフリムン徳さんが、悪かったのです。
 家では、親に押し付けられた弟達の子守で、友達と遊ぶ時間が全くなかった。
親は私が学校から帰ってくるのを、今か今かと待ちわびていた。
私の顔を見るや否や、二人揃って、畑へ飛んでいった。
1人の弟の子守だけではない、二人の弟の子守を一緒にさせられた。
2番目の弟を帯で背中におぶり、1番目の弟の手を引いて、同じ同級生の友達が、カルタうち、ビー玉遊び、コマまわし、桟橋での海水浴、羨ましく、肩に食い込む帯の痛さをこらえながら、眺めているだけだった。
私以外の男のクラス仲間が全員楽しそうに一緒に遊んでいるのに私だけが、一緒に参加して遊べない。
背中に負ぶった弟が、手を引いた弟が、奴隷の鎖のように私の手と背中と繋がっているようだった。
その当時、子守役は女の子の仕事だった。
男の子が子守をしているのは私だけだった。
「どうして、お母さんは、女の子を先に産まなかったの」と、恨み倒す毎日だった。
 その親への恨みが、同級生へのイジメになったと思うが、人間悪いことをしたら、大人にも子供にも罰が当たります。
中学1年生になると、立場が逆転して、私がイジメられる側になり、とうとう私は、今までいじめた同級生から村八分にされてしまった。
狭い村で村八分にされるほど辛いことはなかった。
寂しい、悔しい、悲しい中学時代だった。
太平洋の真中で、一人乗りの小さなボートが漂流したら、怖い思いをしながら、悲しい思いをしながら、助けを待ち、生き延びようとするに違いない。村八分は違う。
小さな島で、その村から逃げ出したいが、逃げ出せない。
死にたい。
朝昼晩、毎日、この二つを実行することを模索しながら、大阪の中学校へ転向するまでおよそ3年間もがき苦しんだ。
まだ世の中を知らない小さな中学生がですよ。
でも、やはり、まだ中学生、世の中に出て何もしないで死ぬのは悔しいと、いう気持ちが強かったから、死なずにすんだと思う。
楽しいはずの私の中学時代の3年間は刑務所服役時代だった、といってもみたくなる。
人生で一番長かった苦しい、苦しい3年間であった。
3年の10倍の30年よりも長かったように思う。
楽しいことはあっという間に過ぎる、苦しいことはその逆のようだった。
神様は何でそんなにしたんやろうか。
 村八分にされて中学に入ってから、私はすぐに図書部員になった。
一番の嫌われモンが猛烈に反省して、人に好かれる人間になりたかったからである。
目が覚めたのだ。
図書部で、「人に好かれる方法」を書いた本を読み、それを実行に移したかった。
それからもう一つ図書部員になった理由がある。
放課後遅くまで図書部員活動をしていると、学校から家に帰る時間帯が彼らとずれるからである。
でも小さな喜界島の早町中学校学校図書部には「人に好かれる方法」を書いた本はなかった。
今、考えたら「人に好かれる」学科を教える中学校があるはずはない。
ところが大阪は大きい街。探し求めていた本が大阪の駅前の本屋にあった。
生まれて初めて入った本屋でもあった。
ある、ある、どんな本でもある。
本が人間を囲んで「はよう、買え、はよう買え」と脅迫しているみたいだった。
喜界島の中学校の図書部とえらい違いであった。
人に好かれる条件、人にかわいがられる方法、、人に嫌われない方法とかいっぱいある。
何冊も所々読んでみたが、理解しにくい専門的な文章が多い。
最後に買うと決めたのは「人を動かす」デ-ルカ-ネギ-著だった。
アメリカの有名人、成功者の「人に好かれる法」、人の使い方、人を説得する法などを具体的な例をあげて、しかもわかりやすく書いてあった。
「人に好かれる法6」
1、誠実な関心を寄せる
2、笑顔を忘れない
3、名前を覚える
4、聞き手にまわる
5、関心のありかを見抜く
6、心からほめる。
 私は「聞き手にまわる」「心からほめる」が大好きで、老人になった今でも実行している。
自分が話したくても、相手の話を辛抱して聞く。
「その話、この前も聞いた」と、絶対に言わずに辛抱して聞く。
これはすぐに効果がある。
褒める、「心からほめる」はほめ殺しではない、ほめ倒しやと思うとります。
21歳の時貨物船で貧乏旅行でアメリカに来た時、初めての買い物はデールカーネギ-の「人を動かす」英語版であった。
私のバイブルみたいなものでした。
この本に書いてあることを実行するために、人も羨む広告大手会社電通も、あっさりと止めた。
生命保険外交員、セ–ルスマン、おでんや、店員、あらゆる接客業を数え切れないくらい変えてきた。
柔道、空手を稽古するみたいに私は中学1年生から62歳の今まで「人に好かれる法」を勉強してきたと思う。
人に会えば、「人に好かれる法6」が条件反射のように現れて身構えるようになった。
とうとう、アメリカで生まれた長男も「デ-ル」と名づけた。
1冊の本はフリムン徳さんをまじめな徳さんに変えた。
3-2007 フリムン徳さん

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