【小説】稲刈り

 「終わる…か?」
 夕暮れの田んぼ。残暑厳しい日中を超えて涼やかな空気の中、少年は片手に持った稲刈り用の鎌をぽとりと落とした。
 彼の腿の辺りで頭を垂らす稲穂はその田のほとんどを埋め尽くし、風に揺られてサワサワと優しい音を鳴らしていた。
 「そんな事を言うなら、稲刈り一人でやってきなさい」 
 小学三年の少年に突き立てられた言葉。
 少年は独りため息をついて、手元から滑り落ちた鎌を拾い上げた。
 長袖のチェックシャツに袖を通し、長ズボンのジャージを履いて、頭には赤い線の入った麦わら帽子。
 少年は少し屈んで稲を一株掴むと、鎌をかけて思い切り引いた。ザクッと小気味よい音がして、稲が切り取られる。
 それを十回繰り返してから、少年は、腰にかけたちょうどよい長さに切り揃えた麻紐の束から一本抜き出すと、稲をまとめて縛り上げた。
 そうして一つの束の完成。
 その作業を少年は、昼過ぎ辺りから続けていた。
 それでも一向に終わる気配がない。
 先程の少年の嘆きはそこからきていた。
 纏うチェックシャツは汗がにじみその青色を濃く鮮やかにしていた。
 ザクッと音がしたかと思えば、数テンポおいてまたザクッという音がする。その間にトンボが二匹重なって、葉にちょんちょんと触れていた。
 少年はそのトンボたちを睨みつける。
 そしてからまた一株稲を刈り取る。
 繰り返し刈っては縛り、鳴きながら飛びゆくカラスを睨みつけ、刈っては縛り、顔近くを飛ぶ蚊を仕留めそこねて、少年は作業を続けた。
 日が落ちるのは本当に早く、先程まで朱色の中に輝いていた金色の稲穂たちは、暗闇にその輪郭をぼやけさせ始めていた。
 少年も狂いそうになる手元を必死に定めて稲を刈る。そうしてまた束ねて縛ろうとしたその時、バサッと稲の塊が彼の手元から雪崩落ちた。少年が誤って縛りそこねてしまったのだ。
 それを笑う様に、一羽のクロサギが彼の上を悠々飛び、餞別とばかりに一枚羽を落として川向こうの山の方へと帰っていった。
 太陽に替わって今度は月明かりが稲穂を照らし出した。それとともに、軍手の内、少年の強く握り込まれた拳も淡く浮かび上がった。
 彼の瞳に反射する世界はグシャグシャになっていた。
 暗がりの中、近くの用水路の音と鈴虫の声が響き、そこに独り少年は涙目に肩を震わせていた。
 田んぼの端、ポツリと佇む彼の背はその闇に溶け込んでいた。
 「おーい。バカ小僧。帰るぞー」
 声を辿るように少年が振り向くと、すぐ横を通る細い農道に軽トラックが一台止まっていた。
 静けさと闇はどこへやら、トラックのエンジン音とヘッドライトで掻き消されていた。
 「なんだー。まだ続けるかー?」
 助手席側の窓を開けて、その奥、運転手は身を乗り出すようにしていた。そこにいたのは、髪を一つ縛りにした女だった。白い半袖Tシャツの袖をもう一つ捲し上げて、そこから見える肩の筋肉は女性にしては逞しいものだった。
 少年はそんな女の呼びかけに、黙って首を横に振った。
 「そうか、じゃあ乗りな」
 そう言って女は、クイッと親指で少年を促した。
 それに従うように、少年はコクリと頷くとトボトボ小さな歩幅で田んぼから上がり、軽トラックに乗り込んだ。
 「ほら、シートベルトして」
 「行くよ」という女の声に合わせて、軽トラックは唸りを上げながら発進した。
 辺りの雑草や虫たちは驚いた様に跳ぶなりはためくなりした。
 二人会話なく、軽トラックは進んだ。
 少年は軽トラックに乗ってからずっと俯いていた。その目の涙も瞳を膜のように覆うだけでなく、次第に粒となって彼の目に溜まっていた。
 そして、甲高くも底響くようなエンジン音と、ガチャガチャというギアチェンジの音で騒がしい車内に、どれに紛れることなく一つ外れる様に、乾いた鼻を啜る音がした。
 一つ目の曲がり角を曲がった辺り、とうとう少年が口を開いた。
 「こんなご飯、不味くて食べられないって言ってごめんなさい」
 唇を少し立たせて、悲しそうな表情で少年は頭を下げた。
 「うん。いいよ。私もあんた一人でこんな暗い中に居させちゃってごめんなさい」
 女はじーっと進行方向を見ながらも、落ち着いた声で頭を下げた。
 道端に伸びる猫じゃらしも、通り過ぎる軽トラックの風に煽られてお辞儀した。
 「全く、まさか本当に一人で稲刈りしに行くなんて思わなかったわよ」
 「だってやれって言うから…」
 「だとしてもよ。私、あんたはすねて部屋籠もるか、ただ泣きじゃくるかだと思ったから」
 「だってちょっとムカついたし。なんか、負けたくなかったし」
 少年はそう言って、窓外を眺めた。
 そんな少年の姿に一瞬だけ目をやって、女は呆れたように、それでも愛らしいように苦笑いを浮かべながらため息をついた。
 「はぁー。全く誰に似たんだか」
 少年が眺める先、川を挟んでその奥の森の木から、クロサギが一羽進む光をじっと見つていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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