【小説】虫になりたい
鈴虫の声が遠くで聞こえる。
昨日まで暑かったのだが、昼間は変わらずとも夜の寝苦しさはなくなってきた。
「お風呂空いたわよー」
自分の部屋で椅子に体を思い切り預けて耳を澄ませていた私に、これもまた遠くから母の声がした。
同じ"声"というのに、どうしてこうも母の声は耳に障るのだろう。
虫の声は綺麗なのに…。
開け放った小窓から軽やかに吹きいる風が冷たくて、私は閉めようと立ち上がった。一歩二歩と窓辺に近づいていくと、細長い月が街灯に照らし出された空にぶら下がっていた。
「あなたは気軽そうでいいですなぁー」
ため息をつきながら口からそんな言葉が漏れた。
バタンと小窓を閉めて、私はまた机へと戻った。白い明かりに反射する真っ白のノート。隣にはぎっしりと数式が並べられた問題集や参考書。
大学を受験するための勉強に本腰を入れ始めたのは最近になってから。夏休みはずっと好きなことをしていた。そのせいでどうやら志望校に入ることができる学力にないらしい。
ならばと私は目標を下げようと思ったのだが―。
「そんなのは許しません。これからしっかりと勉強をすれば間に合うでしょう? ほら、今からでもやりなさい」
相談したのが間違いだった。
昔から母はこと勉強においては厳しかった。宿題はやったか、テスト勉強はしているか、復習もしっかりしているか。
口酸っぱく言われてうんざりしていた。まだ学校の先生のほうが幾らか甘い。
まあ、そのおかげである程度良い高校には入れた。そのまま惰性でどこか大学も入ろうと思っていた。
しかし、大学受験というものを私は甘く見ていた。どうやらしっかりと勉強をしないとそれなりのところには入れないらしい。
場所を選ばなければ、私の今の学力でも事足りるのだが…、やはり母はそれを許してくれなかった。
「あーあ。面倒くさいな」
背もたれにぐっとのしかかって、私は大きく背伸びをした。一緒に私の中からヘドロのようなあくびが出た。それは、さっきまで入ってきていた新鮮な空気を濁らせて、どんよりとした重たい空気が部屋の中で私の周りだけに漂い始めた。
シャーペンを握っても回して弄ぶばかり、ノートも隅に落書きが溜まっていくだけで、一向に罫線の上はまっさらなまま。
どうもやる気が起きない。
なぜだろう。
私はまた耳を澄ませた。
窓を閉めても聞こえてくる虫たちの合唱。良い塩梅で声が混ざって、心地よい。
来世は虫になりたい。
そんなふうに思った。