学生助けたいんじゃーの活動をする中で思うこと
こんにちは。
今回の投稿は、学生助けたいんじゃーのキウイが、活動について思うことを書いていきます。
(※学生助けたいんじゃーの主な活動内容は、こちらのリンクをご覧ください→貧困に苦しむ大学生の現状|学生助けたいんじゃー|note )
学生の貧困について
私は、貧困学生に対する活動をするまで、学生の貧困の問題はお金の問題なのだと思っていました。奨学金の額を増やしたり、大学の費用を安くしたりすれば、解決すると考えていたのです。
もちろん、そのようなサポートがあるに越したことはありません。しかし、それだけでは根本的な解決にならない、というのが今の私の考えです。
今は、根本的な解決につながるためには、「学生が孤独にならない」ということが大事だと思っているのです。
学生助けたいんじゃーの活動をする中で、金銭的な問題や家庭の事情に関してはなかなか友人に打ち明けられない、という学生が多くいることに気づきました。悩みの全てを友人に話すかどうかの判断は人それぞれですが、金銭的な悩みを誰にも言えずに抱え込んでしまう人が、「ここにヘルプを出せば解決できるかもしれない」と思えるような、孤独にならないで済む「居場所」が必要だと感じます。悩みの原因や金銭的な状況は学生ひとりひとりで異なるので、この居場所に個別の包括的なサポートをする役割を担う方がいてくれたらいいと考えています。
ここで、「悩みを相談する場として、現在の学校の相談室ではだめなのかな?」という疑問があがるかもしれません。私自身、学生助けたいんじゃーの活動をしていなかったらそのように考えていたと思います。
たしかに、学校の相談室では臨床心理士さんやカウンセラーさんがどんな悩みも受け付けてくれています。しかし、金銭的な問題に関して専門的なサポートにつないで解決に導いてくれるのは、キャンパスソーシャルワーカーのお仕事だと思うのです。
静岡県立大学には、まだキャンパスソーシャルワーカーの配置が進んでいません。
この活動について
私がこの活動に参加してから、約半年が経過しました。
活動を始めたころは、正直なところ、自分が貧困について活動をすることに意味があるのか、この活動が実際のところ社会においてどのくらい影響があるのかを迷うことが多かったです。
同じ大学に困っている学生がいるなら私にも何かできることがあるかもしれない、という思いすら、困窮している学生にとっておこがましいのではないか。自分はただの大学生であり、できる範囲でしか活動していないので、社会を変えるには考えが甘いのかな。毎日毎日、色々な考えを巡らせました。
しかし、活動をしていく中で、少しずつ考えが変化し始めました。
一番のきっかけは、別の大学の授業で津富先生が講義をする際、学生助けたいんじゃーのメンバーも一緒に授業をつくらせていただいたときのことです。
「ボランティアから社会参加へ」というテーマについて考える中で、学生助けたいんじゃーは、自らの手で社会をより良くするための活動、すなわち社会参加のひとつなのだと気づいたのです。
社会の問題に対して当事者意識をもち、自分たちの手でアクションを起こしたい。そうすれば、息苦しさを感じなくても生きられる世の中をつくっていくことができるかもしれないと思いました。
当初強く抱いていた「困窮している学生にとっておこがましいのではないか」という思いは、支援する側とされる側とを切り離して考えているからうまれる考えなのかもしれません。しかし、生きている限り、どんな人でも置かれている状況や立場は否応なく変化し続けます。誰もがいわば「あるときは支援する側であり、またあるときは支援される側でもある」のではないかと思います。そう考えると、「社会を構成する人みんなの力で、世の中を良くしていこうよ」という活動が、学生助けたいんじゃーの活動だとも捉えられるのです。私は、この考え方を学生助けたいんじゃーの活動から学びました。
私は、身近に理不尽なことや、困ることがあるときに、不平不満を言うだけの人にはなりたくないと思っています。改善すべき現状をより多くの人に伝え、実際に制度や仕組みをより良くしていくにはどうしたらいいのかを考えていける人になりたいです。
そういったことを、実際にやってみることで学ぶという意味でも、私はこの活動をすることに意義があると考えています。
今後も、メンバーと協力しながら、制度や仕組みが多くの人にとってより良い方向に変わっていくような過程を作り上げようと思います。