Burn

 僕はいい加減過去の記憶を焼却処分しないといけない。そして僕にはその準備が出来ている。今日は父親と共に温泉に行った。苦渋に満ちた馬鹿げた時間が既に灰燼のように思えた。僕は本当にリラックス出来た。
 ところで話はそれるがフランツカフカが自分の作品は全て焼き捨てるようにブロートを筆頭とした友人に言い残したらしいがそれはどういう意味を言葉の裏側に秘めていたのだろう?彼は小説家として精力的に執筆活動に及び、自費出版で短編集を上梓した。彼は自分の作品に対して冷淡だったようだ。ユダヤ人で、短編の名手として知られていたのだろうか?また彼と蜜月関係にあった女性もいたようだ。彼はどうやら性格的に良い人であったようだ。まあ少し話したかったから話してみた。
 燃やす事、再三再四にわたってネット上で自分の過去を発信する度にそれは心理学的に記憶が強化される事を僕は熟知していた。それにも関わらず、飽き足らず自分の事を明瞭に話していたのは共感して欲しかったからだ。しかし統合失調症などの精神疾患の懊悩は常人には理解しがたいものが多く、実際にはそれほどまでに人気を博したりする事はなかった。noteによるブログを開始してからまだ日は浅く、まだまだ熱心な読者諸氏を獲得する事は至難の業である。自分の人生を思い通りに動かすのは統合失調症にとって並大抵でない努力を要する。それだけの努力を要する割には見返りが案外無味乾燥だったりするので、完全な享楽や悦楽を追求する存在としては非常にナンセンスに感じたりするだろう。
 過去を燃やす事、僕は過去から連想されるイメージとして先程灰燼のようだと述懐した。そしてそれは未来の瑞兆、予言的な啓示である。燃やすのだ、放火魔のように。実際に物理的に燃やすのは色々と弊害があるが自分の過去というコンセプトを燃やす事は合法だ。そうする事を糾弾する上手い口実などない。僕はこの12月と1月の和歌山での療養生活で何か大切なものを得たような気がする。母親や祖父母とのドライブも永劫に忘れられない。彼らは頑迷な僕の脳髄を十分に安静させた。心機一転だ。燃やそう。ただそれだけ。
 僕は今週の金曜、即ち1月31日に京都に戻り、然るべき僕の責務を果たそうと尽力するつもりだ。26歳になるまで恋愛が出来ずにいたのは痛恨の極みであるが、僕はこれから人間として素晴らしい、心の美しく、愛される人を目指して生きていきたい。それは僕が今までなおざりにしていた事だ。

いいなと思ったら応援しよう!