前衛芸術家
僕は学生時代、単に美しいだけのものを折りに触れて軽蔑する時もあった。僕もニュートンやアインシュタインの学生時代と同じように比較的新しいものを好んだ。絵画の分野においてはダリやピカソを特に愛好した。新しいものを特別視し、過去の文化や伝統を蔑ろにするのは途轍もない反逆者のする事だ。しかし若い僕はその蒙昧さを論理に問題がある事を自覚していながら、確かに愛していた。
前衛芸術家という言葉がある。僕は驕慢にもその肩書を前面に押し出し、血気盛んに活動してきた。しかし最近は僕の内的な奔流、ありとあらゆるむごたらしい迸りを感じられなくなった。また僕は昔、文学の世界に遁走し、自分の中では長足の進歩を成し遂げた気がしていた。しかしそれは畢竟高二病的な昏迷の証左に他ならなかった。
日常生活の定義域に収まらない崇高な力動を、僕は人生に求めた。健常者の幾層倍もその妄想の世界は広がっていった。単に眉目秀麗とか八面玲瓏な学生は学年に何人かいたが、僕はその尺度による不利益を被る事を頑迷にも一切拒絶した。僕は既成概念に無闇矢鱈に是認する事に首肯しなかった。僕もランボーのように瑞々しい感受性を持っていたのだ。
過去の前衛芸術家は各時代において理解しがたい、スタンダードでない技巧や個性、世界観を勇猛にも導入し、それが定着し現代では偉人とされてる者がいる。確率的に言えば数%だし、夢半ばに敗れ去り灰燼に帰した前衛芸術家もいるだろう。この真理は尚も悠然と僕の眼前に横たわっているようにも感ぜられる。この推論に行き着いた事は僕にとって矜持であり、喜悦であり、統合失調症に蹂躙されまいと満身の力を込めて抗した戦利品だ。
破天荒さは前衛芸術家が諸分野において基盤を成す第一の特徴だと思う。岡本太郎も綺麗なものは真の偉大な芸術作品ではないと言った。僕は僕の少年期と青年期前半の自分には岡本と同様の意見を持っていた。しかし徐々に芸術家としての視覚が摩耗してきたからか、美しいものも悪くないと思うようになった。このように言う事は前衛芸術家としての僕の評価を図らずも毀損させる事か否か。それには侃々諤々の弁舌を擁する議論が必須である。
昔の、科学技術が急速に台頭する以前は近視眼的な振る舞いや異端邪教を精密にふるいにかけたり、天秤にかけたりする機運は昨今ほど一般的なやり方でなかったのだろうか。人間の人生には時代の潮流や共通認識がある程度一蓮托生である。