無と全裸

 この記事はタイトルから連想されるような猥談ではない事を言っておく。僕は10代から今現在まで頑迷でいた。人との関係性を拒絶していた。僕が心から望んでいたのは一体何だったのだろう?やはり救いか?何を受け止めれば僕は幸甚の至りを得る事が出来たのだろう。僕は選民思想も持っていて自分が史上空前の統合失調症患者であると自負していた事もある。余りに苦痛の度合いが過ぎたので宗教に救いを求め、歔欷した事もあった。神仏に向かい合掌していれば良いと、信じる者は救われるとの信者の言葉に一縷の望みを見出していた。それでも具体的に宗教を信仰する事もなかった。僕はあの頃に行動していれば敬虔な教徒になり、偏執狂的な性格を改善させる事が出来ただろうか?
 僕は今や無である、そして全裸のようなものだ。僕は数学の小径も、文学の小径も捨てた。もう十分極めたからだ。それは僕の主観的なものである。ほぼ直観と言っても差し支えない。
 和歌山県は豊かな山川草木が至るところに配置されている。ひとたびドライブをすれば田舎道の風光明媚さに圧倒される思いだ。僕は子供時代、田舎なんて土人の土地だと思い込んでいた。それは愚かな考えだった。今振り返ってもそう思う。しかしそれもまた人間性とも言えるかも知れない。したがって僕は自分を責めない。
 無。それは今の僕だ。全裸。それも今の僕だ。今の僕は何もない。これからどうするかは僕の意思次第だ。頑張っていこう。気宇壮大な人格を目指して、多種多様で豊かな経験を蓄積させていこう。僕はもう小人ではない。立派な体格である。もう人目を気にしてびくびくする必要はない。自分の行動が人類史に永劫に残るものになれば良いが、それも理想が高すぎるか。僕は先日神社や寺に初詣と称して父親と赴いた。僕は合掌し、願いを心の中で唱えた。殊に一願寺は僕にとって大願成就の寺である。人は神社や寺にはほとんどいなかった。対人恐怖症の僕にとってはそれも好都合だった。
 無となった。ただし統合失調症の痕跡は残った。僕の父は僕に対し「あまり家に籠もるな。疎外感が大きくなるから」とアドバイスした。僕は未だ濛々とした世界で漂っているのか。無になった、メタファーでアイロニカルなレトリックを弄すれば全裸になった。その認識は、その表現は正しいものなのかどうか僕には分からない。
 僕は異常者ではない。僕が考えている事は危険思想ではない。僕はもっと堂々と生きるべきだ。幻聴は幻聴として気にしないようにするのだ。僕の主治医が言っていた事だが統合失調症の患者が寛解に至った場合、彼らは幻聴が無になった訳ではなく、幻聴があってもそれらを首尾一貫して、無視出来るようになる事を指すらしい。僕は情動的な思い込み、その大部分が自分自身を卑小なものとするものを一笑に付していかないと。誤った認識を徹頭徹尾拾い上げ、自己懲罰の性向を強める習慣を辞めたい。僕は無と全裸と銘打った雑駁なこの記事をネットの世界に解き放つ。今の僕は何もない。何もないという事は心機一転して何事も始める事が出来るという事だ。誤解を主軸にした、他者に目くじらを立てられるような理論を少しずつ淘汰させていかないと。
 人々は杓子定規的なものを目にし、それらを見て余りにも突拍子もないその構造から破顔する事もある。もしかすると僕がそういった破顔一笑されるべき、ある種のユーモアの萌芽を表現出来ているのかも知れない。しかし、そうでないかも知れない。衝動的に文章を綴ったが読み返してみるといつも通りの愕然とすべき酷さだ。まあそれも個性と換言出来なくもないが。しかし反面猥雑さも感じられなくもない。合掌。

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