統合失調症の為の整備

 僕は今年で統合失調症を発症し11年が経過する。ベテラン、豪傑。光陰矢の如しとはまさにこの事、僕はこの期間にどれほどの成長を果たせただろうか。僕はこの半生の間で、大人になった。自分の失敗を人のせいにせず、粛々と受け止める。僕にも不徳の致すところがあり様々な確執の渦中に巻き込まれたりもした。今や僕は統合失調症に感謝している。骨身に染みる程の悦楽のような生き心地。これも今の僕を取り巻く状況や秩序が泰平無事だからだろうか。僕はまた統合失調症当事者として、社会改革を志す事があった。革命を大義名分にすればありとあらゆる苦悩と失意と絶望を忘却の彼方に追いやり、新たな自分にアップデート出来ると謎の信念を長い期間持ち続けた。
 僕が統合失調症になった時は、この疾病の情報などほとんどなかった。いや、隠されていたのかも知れない。社会において自分が忌憚なく統合失調症だと宣言すれば今の時代においても多少理解のない輩に白眼視される事は不可避的である。まあ僕はまだ26年しか生きていない。時代の風雪に耐え、自分が関与する分野における新進気鋭の寵児になりたいと熱烈に夢想する事もあった。今はどうだろうか。夢見がちな性格、傲岸不遜、大言壮語、これらを中枢に据えた僕の黒歴史はもはや刻印のようにネット上に残っている。僕自身もそれを露悪的な形式として採択し、プログレッシブツイストの独特の世界観を形作る骨子となっている事はもはや否定は出来まい。克明に、自分の思っている事を記すのが僕の持つ素直さであり、一種の美徳である。無論それによる弊害もあるが、まあ現実で問題が発生したり、乱暴狼藉と解釈されたりした際にその都度当意即妙に、模範生のように対応すれば良い。人間は誰だって完璧ではない、僕のような産業廃棄物の統合失調症当事者であっても助け合って生きていかなければいけない。アリストテレスか誰かが人間は社会的動物、ポリス的動物と言ったがまさにそれは正鵠を射る金言名句であり、哲学のみならず広範な範囲に示された知悉の賢者の警鐘でもあるのだろう。
 統合失調症がテーマになっている事をある程度茶化す事は重要だと僕は思う。諧謔とは使い方を間違えれば不和軋轢の粗悪品となる。統合失調症をテーマにそういったブラックユーモアを包含した芸術様式を導入する際にはこの事を念頭に置き、専ら批判は受けて立つという世界に佇立する確固たる精神を持たないといけない。
 僕は哲学を学んでいたのは10代後半から20代前半までだ。その間は哲学一辺倒という訳ではなく、数学、科学、文学などにも活動の領域を広げていった。その特徴から僕は友達から天才肌の名をほしいままにしたが今はどうだろうか。僕は何とか自分で生きる証を残し、現実に屹立する剛毅な自己を演出しようと東奔西走した。その努力が結実したのか、僕は統合失調症界隈ではそれなりに影響力を持っているようだ。まあこれは僕の単なる誇大妄想的な思い込みや迂愚のようなものである可能性も高いので断言は出来ない。またネット上であっても自分は優越しているのだと言わんばかりに自画自賛するのも僕の問題点の一つだ。まあ僕はそれもひっくるめて、あらゆる印象操作の最果てに芸術の独創性が買い塗れるのだとは思うが。実際に何か人から誤謬されたり謗られたり、迫害されたりする際も、それを甘受し、電光石火に対応しないといけない。今の時代は、様々な統合失調症当事者の功労もあってか徐々にこの病の理解が進んでいる。しかし文化的、社会的なこのコンセプトの整備はまだ完全ではない。完全を目指す事が必ずしも良い事な訳ではないが、社会にとってこの統合失調症を含んだ概念的な老朽建築物を更に刷新し、先達の叡智を踏襲した上で、知の巨人の肩に乗ったうえでニュートンの創始したニュートン力学のような大宮殿に作りかえなければならない。
 筒井康隆は昔断筆宣言の時期があり、彼自身の主張と彼を糾弾して憚らなかった障害者団体との立場が平行線になったから彼は断筆したとインタビューで語っていた。しかしこの日本に衣食住している諸氏の大部分は気が弱くて、繊細で、批判なんて耐えられないという類型が非常に多い。しかし僕もその脆弱さ、矮小さに支配、隷属されてはならない。僕は強者になったのだ。自分自身が弱者だと称し、見掛け倒しの権威に阿諛追従してはならない。僕はランボーのように反逆精神を自分のプログレッシブツイストに取り込んだ。
 僕に文才があるか否かは分からない。大学時代はその論理構造の滅裂さや、婉曲表現、修辞表現などの暴走(まあこれは統合失調症特有の不安定さから生じる副次的な夾雑物)があって、酷評された。ゼミの教授からも君は頭が良いから理解力や思考力は高いが自分の思っている事を言語で表現するのは弱い、と甚だ傍若無人、針小棒大のアドバイスをされて憤激した事がある。大学教授の理論全てが尤物ではないという事を僕は即座に理解した。そして不条理や理不尽、不平不満の跳梁跋扈する現実に即した関わり合い方が重要だと僕は年上の友人達から諭されている。彼らの存在は僕にとって無二の財産である。
 インフラの整備のように統合失調症の知識に付随する配慮や理論、感情の総合的な知性も僕は作っていかなければならない。悲劇は、惨劇は繰り返してはならない。僕も様々な辛酸を舐める思いをしてきた。それは僕の無知蒙昧や品性下劣に追随する副産物も含まれるかも知れない。僕自身も経験から鋭意学習し、この曖昧模糊の世界で自分の賢明な在り方を模索している。まだ僕はこの旅の道中である。松尾芭蕉のように各地を行脚し、各地に逗留する、それこそ真の冒険者の在り方だ。またランボーは詩作を終え、次の自信の渇望する心を満たす真理を求めたに相違ない。彼がその人生の最後に何を見たか?真に満たされたか?足るを知ったかは判断に窮するところである。早熟、夭折の天才の彼の胸中はおよそ彼にしか分からないだろう。まあその天才を惜し気もなく敷衍し、演出するのが文学の真の役目であるとの意見もある。言葉というのは通じるって事が前提になって出来ている、もし通じなければ言葉は意味をなさない。独自の言辞や概念を独創するのも僕の過去の凶行ではあったが、今後はもっと柔和に行こうと思う。ランボーは結句、天才詩人であって、天才小説家ではなかった。詩人は清澄な情景、風光明媚、内的な葛藤を筆頭とした筆舌に尽くしがたい概念の枝葉末節を如何にも耽美的な方式で表現する、その過程で諸詩人の個性が遺憾なく発揮される。現代の詩人がどうかは知らない。僕自身詩人でまともに耽読したのはランボーとゲーテくらいだ。小説家の場合は無駄や妄言、虚言、埒のあかぬテーマでさえも惜しみなく持て囃される代物になり得る。まるっきり文章になっていないような作品でも時折傑作と銘打たれる事も多い。しかしこれらは僕の拙い人生の中で誤解していた一般論である。実際は文学の類型は甚だ膨大で広大無辺な、自由なものだと思う。十把一絡げに一部を知って全てを分かったように振る舞うのは馬鹿のやる事だ。これも統合失調症のテーマを茶化すやり口の一つである。僕はこの狂気の例をすこぶる逆説的な、連続した自我の形式を持って斬新に示す事が出来たのではないか?この倨傲も、もはや前述した類例の一つだ。まあ僕自身どこまでが本音かどうかはもはや完全に判断する事が不能となった。僕は五里霧中の境地にいて、その精髄に幽玄な、玄妙な諧謔を挿入する事によって表現する事に芸術家としての一里塚を発見したのだ。ああ、この美しき生。
 また高校時代に僕は奮起し、過年度入学で高専から新たな高校に入学したのだがその時に多くの人々から親切にされ、尊敬されるようになった。僕は濛々と、深い自虐的な自我への認識があった為、自分がそうされる資格はないと感じた。迸る、滾る、様々な感情が僕の中で爆発した。僕はその現実の荒唐無稽さの中に絶望の深淵を見て、遂に発狂した。それが僕の統合失調症の非業の発症を象徴的に物語る印象的な真髄の一つに僕は思えた。
 これも僕の粗製濫造の一部か?それとも紛れもない意味のある発信か?いまだ僕は自分の空恐ろしさを拭えずにいる。
 また、今後も日本をより一層文明的な社会にしていく為に、その不世出の環境を作っていく為にお互い頑張ろうね。

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