文士
統合失調症にはしばしば旺盛な文学活動に取り組む人々がいる。彼らは素晴らしい感受性とそれらを昇華させる事が出来るだけの文才を持っている事も珍しくはない。文士と呼ばれて然るべき人物が依然として燦然と輝いている。僕も文士を目指していた。しかし目下の生活は荒んでいた。まず僕は文学的に値打ちのあるものを作ろうと文学の修業をした。様々な名著を読んで自分の才能を涵養しようとした。文学史には文学そのものに準じた人物もいる。燦然としたベストセラーを刊行した島田清次郎なんて男もいる。しかし彼の名は人口に膾炙していはいない。彼は一般に難詰されるような犯罪をし、統合失調症を罹患し、最後は病床にて死去した。青葉真司なんて人非人も自分の妄想を頑として信じ、それに基づいて火災という凶行に至った。彼は昨今のニュースで死刑が裁判において決定されたらしい。
世の中には夢を持つ、迂愚な人々に対して手管を弄する人々もいる。犯罪はばれなきゃ犯罪じゃない。騙される方が悪い。これらは粗悪でありながらも世間の根底に跋扈し続ける、迸る邪念である。人間は必ずしも美しい訳ではない。このような邪念が支配的となった邪教さえもこの国の影で発生している可能性は否めない。これはもしかしたら全くの的外れかも知れない。僕の脳髄が、神経が、統合失調症が捏造した誤った考えかも知れない。したがって大嘘だと言われる事にも僕は甘んじて受け入れるつもりだ。
僕の中には空理空論が恣意的に交錯している。それ故僕を忌み嫌う層も一定数いる。統合失調症はこれだから信じられぬ、と統合失調症に対し白痴や蛮人と刻印する人々もいるだろう。そうなるのは悲しい、その憂き目にあう事は僕が断固として回避しなければならないと思っている。それでもなす術なく、社会に対し大敗を喫する想定もある。
実は今回のこの駄文と呼ばれても如何ともし難く受け入れなければならない文章を発表するかどうかを悩んでいる。僕は己の沽券を零落させるかも知れない事に皮肉にも加担している事も明記しておく。ここまで自覚的なのに、僕はまだまだ自分の奇行を辞める事が出来ない。文章自体に奇をてらう事はないかも知れない。また読者諸氏に対し、非常に心理的、副次的な産物を提供するような卓越したブログではないかも知れない。
まあ僕が対峙しているこの状況は誰にも起こり得る事だ。ネット上でも、リアルでも、嫌われる勇気を持たなければいつも戦々恐々として過ごす事になる。それによる弊害が問題視される事もあるだろう。
文士のような有意義な事を僕は書けただろうか?文士になる為に必要な資格などない。文士を名乗ればアマチュアだろうが専業だろうが皆一様に文士だ。しかし僕は僕の敬愛する筒井康隆の言葉を借りれば偽文士なのだろう。僕は文士になりその立場を吹聴する、豪語するには余りにも弱すぎる。このような非生産的と思しき弁舌もまた僕が偽文士たりえる所以なのかも知れない。しかし僕は甚だ裏表がなく、素直だ。僕はどうしても嘘をつくのが不得手である。僕は何度自分を傷つければ気がするのだろう。自分に目くじらを立てる割には目指すところは統合失調症患者の救済。典型的な撞着であり、図らずもそれはある種の諧謔である。僕にがっかりしただろうか?だとしたら僕は謝らないといけない。しかしこれだけは分かって欲しい。僕もまた死に至る戦いをし、戦い抜く意思を宿し、それに準ずる戦士なのだ。これを読んでいる同じ立場のあなたにならきっと僕の深い想いを読み取り、咀嚼する事が出来ると思う。傑出した意匠はない、しかし情熱はある。シンプルイズベスト。この統合失調症黎明期において幾人もの泰斗が先達となって活躍している。僕もそれに乗じて自由闊達に生きている。僕自身もまだまだ自分の曖昧模糊な思考について懐疑的な部分もあるが、今後上手く成長して、いつか誰に見られても恥ずかしくない人になりたい。