【記者日記】阪神淡路大震災追悼式を取材
かわすみかずみ
震災から30年
1月17日、阪神淡路大震災から30年を迎えた兵庫県では、各地で追悼式が行われた。
阪急神戸三宮駅近くの東遊園地では、例年のようにイルミネーションが飾られ、多くの人が亡くなった方々を偲んだ。竹でできた灯籠には、今年のテーマである「寄り添う」など、それぞれの思いが込められた言葉が書かれた。ろうそくを手に、竹灯籠に火をつけて祈る姿があちこちで見られた。小さな子どもを連れた家族や外国籍の人々など、様々な人々の祈りを見ると、阪神淡路大震災がいかに多くの人々に被害を与えたのかがわかった。
神戸市役所前では、兵庫県被災者連絡会(兵庫区)の呼びかけで有志による「追悼·連帯·抗議の集い」が行われていた。晴れてはいるが空気が冷たく、立っているだけで手がかじかみ、膝に深々と冷たさが溜まっていく。そんな中で、震災復興へのアピールは続く。大阪からも有志が参加していて、友人に会うことができた。
友人の紹介で復興住宅に住む女性からお話を聞くことができた。山村ちずえさん(90代)は震災の日、自宅の2階に寝ていた。いつもは1階のコタツで書き物などをしている時間だった。揺れが激しく、まるで実家の大分に帰る船の中にいるように思えたという。手探りで電気をつけようとしたが、照明器具ごと吹っ飛んでいた。1階に降りると、コタツの横にあった本棚が倒れ、電子レンジが反対の壁の方に飛んでいた。もし1階にいたら命はなかったと思った。外に出ると、向かいのアパートはぺっちゃんこになっていた。文化住宅の棟続きにあった大家さんの家は潰れ、奥さんが家の下敷きになっていた。全身を家の重みで圧迫され、足だけが外に出ていた。慌てて走っていき、大声で、「誰か助けてー」と叫ぶと「うちもぺっちゃんこや。助けに行く暇ない」と言われた。近くの工事現場から油圧デッキを持ってきてもらい、やっと助け出した。その奥さんも震災から1年後に亡くなった。
山村さんは裏にあった平屋のお宅にしばらく世話になったあと、避難所に入った。朝は学校まで食事をもらいに行き、避難所から仕事に行った。避難所での暮らしや震災から学んだのは「つながりが大事だ」ということ。復興住宅で食事会やお茶会を開き、友達を作ることを率先してやってきた。テレビを見ることしか楽しみがなかった男性が、お茶会にきてからよく話すようになったという。誘い合わせて検診などにもくるようになる人もいたり、顔の見える関係が出来上がっている。山村さんは90歳を過ぎた今も、食事会の材料の買い出しなどをひとりで行っている。10キロ近い食材を背負って帰る姿は90代には見えないと言われるそうだ。
震災から30年経って、復興住宅でも多くの方々が亡くなった。いま、山村さんが住む復興住宅の被災者は20人程度で、一般の住人が増えている。震災を知らない人たちが増えていく中、どのように震災を語り継ぐかは大きな課題だ。山村さんも、孫たちへきちんと震災を語り継ぐことはできていないかもしれないと語った。
若者たちの思いに触れる
JR新長田駅前で行われた「1.17 KOBEに灯りをInながた」を見学した。16時半から中学生による合唱『しあわせ運べるように』の合唱が披露された。この合唱曲は、震災で被災した小学校教諭の臼井真さんが、発災から1ヶ月後に作ったもので、神戸の各地の学校で歌い継がれている。
会場では神戸大学の学生が会場整備などで活躍。街頭では神戸常磐女子高等学校の生徒がこの企画の運営維持のための募金活動をしていた。
17時半からの若者たちの主張の中では、在日外国人の若者や震災を知らない学生など、9人の若者のアピールがあった。徐々に暮れゆく街の片隅で、「1.17ながた」と形作られた竹灯籠に灯りがともり始めた。仕事帰りに寄る人なのか、徐々に人波が増え始め、「久しぶり」「元気だった?」と声を掛け合う人の姿がちらほらと見えた。
1994年に生まれた男性は、1歳の誕生日の前日に被災した。両親が一升餅を買い、誕生日の準備をしていたのに、それどころでなくなってしまったそうだ。この男性は父親から「地震で(赤ちゃんだった当時のこの男性を)落としてしまい、ベットのすき間に落ちて助かった」と聞いている。「明日、31歳になります。支えられた方々へ感謝し、語り継ぐことを使命とします」と結んだ。
2003年生まれの神戸親和女子大学の学生は、大学で防災教育に関わり、将来は神戸市で教員になりたいと述べた。昨年フィールドワークで被災者から直接お話を聞けたことで、語り継ぐ決意ができたという。被災していない自分が子どもたちに何を伝えていけるのかという迷いの中で、被災者から直接お話を聞ける最後の世代としての役割に気づいた。
1994年生まれの男性は、ペルーで生まれ、日本で育った。学生時代を神戸で過ごし、学生のときに、このイベントで『しあわせ運べるように』も歌った。今は防災を仕事とし、ペルーで日本の防災を伝えるためにJICAで頑張っている。
2007年生まれの 神戸常磐女子高校の生徒はボランティア部に所属し、1.17の企画に関わっているという。この学校では震災で3人の生徒が犠牲になった。震災を機に同校にボランティア部ができ、震災を風化させないよう取り組みを行っていると述べた。
17時46分、中学生の掛け声で1分間の黙とうを捧げた。多くの人の心に蘇ったであろう、亡くなった人々の姿や、当時の街。
あの日消えていった命といま生きている自分とが交差する1月17日は、いつもの日とは何か違う空気を感じる。「失ってしまうもの、守りきれるもの、ほんの小さな違い」というスガシカオの歌の歌詞があるが、被災された方々には、切実にそんな思いがあったのかもしれない。