【小説】気にいらずの神社。

 幸田俊平は冴えない公務員である。銀行員であった父親からお古のスーツを貰い、それを大切に着込むような性根の男ではあったが、能力も、容姿も、性格も人並みで、可もなく不可もない。彼は大学を卒業後、地元の市役所に勤めることになり、今年で5年目である。上司からの評判は「真面目なやつさ。真面目すぎるくらいかな。悪いやつじゃないんだけどな、『今夜いっぱいどう?』って誘いたくなるほど、可愛いわけでもないんだよな。もう少し愛嬌があればな。」とのこと。後輩からは「幸田さん?あー、頼めば何でも助けてくれますよ。え?仕事?押し付けてないですよ(笑)」とのこと。3年半付き合った元カノからは、「良い人よ〜。でも、あの人、買ってきた豆苗を四回も収穫しようとするのよ。その必死な様を見てたら、なんか、嫌になっちゃった。」とのこと。総評、真面目だが、面白みのない男。それが幸田俊平である。

 上司から飲みに誘われない。後輩を飲みに誘うこともない。酒の勢いで共に一夜を明かす女性もいない。そもそも仕事終わりは寄り道をせずに、まっすぐ家に帰る。そんな彼が、なぜ、その日は泥酔していたのか。ーー…それは、塵の山となった日頃のストレスが、ある事をきっかけに引火して、そうして、耐えきれなくなって、酒に逃げたくなったのかもしれない。
 嗚呼、可哀想に。彼は今、ウンウンとうめきながら、誰もいない真っ暗闇の中で、孤独と寒さに震えながら赤子のように丸まって寝ている。その顔には涙の跡も見えるだろう。街灯一つない闇の中で、彼の、酒と憤怒と悲哀の赤ら顔のみが、猛火のようにメラメラと揺れていた。

 翌朝、彼は目覚めた。目覚めて、驚いた。彼は全く見覚えのない山の中にいた。体格の良いゴツゴツとした木々が、彼を見下ろすようにジロリとズラッと囲んでいる。密集した木々の間から割り込むように顔を出す太陽も、これまた主張が激しくサンサンと照っている。それだけではない。無数の蚊の音が、プンプンプンプーンッッ、まるで田舎の暴走族のように騒がしく鳴る。
「お…おれはなぜ、こんなところで寝ていたのだろう。」
 元来気の弱い彼は、首をすくめて困惑した。蒸し暑さと緊張から、滝のような汗がダラダラと流れた。

 ふと、彼は眼前に1000段ほどの長い階段があることに気づいた。しかし、これまた不親切な階段で、大きさも形もバラバラな岩で足場を作っているのに、手すりがない。急勾配で、おまけに枯れ葉もたくさんあるから、雨でも降った翌日にはきっと転んでしまうことだろう。

 一瞬、階段の行先に興味を惹かれた彼だったが、その意地悪な様を見て、途端に興ざめした。しかし、彼はここでふと、昨日のことを思い出したのである。
 彼は昨日の勤務中、厄介な爺さんに絡まれた。爺さんは小柄な人だったが、そのあまりに横柄な態度で彼を圧倒したのである。唾を飛ばしながら理不尽に怒りをぶつけてくる爺さんに、彼はただただ首をすくめて、弱々しく縮こまるしかなかった。
「おめえは本当に使えねえ。そんなボロっちいスーツまで着ちまって。ハッ。まさしくお前みたいに萎え萎えとしたもんだ。お前みたいなヒョロヒョロのガキに、この仕事が務まるってんのか。えぇ?」
 彼は自分を情けなく思った。同時に、自分はいつも誰かに見下されているなと思った。上司からも、後輩からも、彼女からも、爺さんからも。一生懸命、真面目に仕事をして、真心を込めて向き合っているはずの人々から、なぜ、自分はこうも見下されなくてはならないのだろう。
 彼は眼前の階段をキッと睨んだ。最上階から見下ろす気分は、さぞ心地良いだろうと思った。

 整備されていない石段を登るのに、彼の革靴は不向きだった。黒光りする革靴に泥がベトベトと付着する。
1000段もの階段は勢いだけで乗り切れるものではない。彼は途中で迷った。大切なスーツを、汗で汚してまで登るものではないんじゃないか、と。それでも彼は登った。決して後ろを振り向かず。ただ、真っ直ぐ、ひたすらに、永遠に。

 気の遠くなりそうな時間が経過し、彼はついに階段を登りきった。階段を登った先には、木で出来た簡素な鳥居があった。がっかりするほど、大した事のない鳥居だった。石の鳥居ならまだ貫禄があっただろうが、木で出来たそれはあまりにお粗末だった。おまけに、ここには門番がいない。狛犬も、狐も誰もいないのである。代わりに、三匹の大きな蜘蛛が我が者顔で巣を張っていた。鳥居の真ん中に堂々と居を構えるものだから、彼はわざわざ低頭していかねばならなかった。非常に、不服だった。
 鳥居を潜った先も、拍子抜けするほど平凡だった。だだっ広い空間の中に、ぽつりと手水舎があって、その斜め右側には、装飾のない地味な舞殿がある。それから、舞殿の後ろには、鳥居と同じ木造の小さな拝殿がある。
「ハッ。わざわざ1000段も登った先が、こんなにつまらない神社だったとは。」
 彼は誰もいないのを良いことに、声高に罵った。
「凡庸で、これと言った特徴がない。地味だな。嫌味な派手さがないから、『真面目』と言えるかもしれんが、面白みがない。」
言いながら、彼はぽろぽろと泣いていた。泥と汗に汚れたスーツが切ない。それでも、その袖で涙を拭わねばならぬのが、あまりに情けなかった。

 ふと、彼は弾かれたように鳥居の方へと駆けた。一体自分はなんのためにここまで来たのか。何も泣くために来たわけじゃない。ーー…いつも誰からも見下されてきた自分は、今、ここから、一切合切を見下ろしてやるのだ。燃えるような復讐の念が、閉じた瞼の裏、真っ暗闇の中で赤々と揺れる。

 一呼吸の後、彼はゆっくりと目を開けた。目を開けて、非常に驚いた。

「なんて、美しい景色だろう。」

 1000段も登った先の神社から見た景色は、それはそれはありきたりだった。民家があって、学校があって、店がある。よくある街の光景だ。それでも、彼が「美しい。」と思ったのは、この神社の主が、何年も何十年にも渡って、この景色を見守り続けてきたのだと気づいたからだ。人々の営みを見守り続ける温かな眼差しは、市役所の職員として誇り高く働いている自分にも重なるものがあった。
「あぁ、綺麗だ。実に、綺麗だ。」
 彼は、改めて地味で凡庸な神社を見やった。彼は、豪華なものや、特別なものは、何もいらないと思った。彼は、汗に塗れたスーツの襟をしっかりと正した。

「あんた、良いところに住んでんじゃねぇか。そうだよ、こういうのが良いんだ。やれ華美な装飾だの、格式高さだの、そんなものはいらねぇんだ。人間も、神様も、『普通』が一番だよ。おめえさん、良い所に住んでいやがる。けども、寂しいだろう。こんなところじゃ。」
彼は拝殿の手前にある石にドッカリと腰を下ろした。彼は仲間を得たようで心強くなった。そうして、拝殿の屋根の埃を撫でるように拭いてやったのである。
「あばよ、神様よ。ここにはなんの看板もないから、あんたがどんな神様かしらねぇが。それでも、俺は嬉しかった。俺たちゃ仲間だ。また来るよ。」

 晴々とした彼の顔に日光が差し込む。別れ際、彼は改めて木製の簡素で平凡な鳥居をじっくりと眺めた。
「んぁ?なんて書いてあるんだ?」
彼はよくよく目を凝らしてみた。そこにはこう書いてあったのである。

『権現宮』

「"権"力の"現"れる"宮" だぁ?」
彼は途端に腹が立った。
「お前!やっぱりいやらしい。最低だ!俺たちの友情は無しだ!」

 突然の裏切りに、彼は辺り一面が真っ暗闇になったかのように思えた。一方で、彼の顔は憤怒と悲哀に赤々と燃える。彼はカンカンに熱くなったヤカンのように湯気を出しながら、一気に階段を駆け降りた。

 嗚呼、悲しいかな。彼にもう少し観察力があったのなら、あの薄汚く見えた舞殿の屋根に葵の御紋があったことに気づけたであろう。また、もう少し彼に知識があったのなら、そこが東照宮大権現、つまりは徳川家康を祀った神社であると分かったであろう。

 幸田俊平は冴えない公務員である。彼は一生、そうであろう。たとえ1000段もの階段を登り切る忍耐力があったとしても。

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