[ナマリエ] Happily ever after:9話
今日はとても寒い日なので、暖炉では薪が燃え続けていた。
ナマリエは母が温めてくれたティーカップを持ち、窓の外を眺めていた。
彼女が住んでいるエルフの村は、樹皮が白い木々に囲まれていて、そのためか真夏でも冬のように感じられる時もある。
特に、ナマリエの家は村の外れにあるため、冷たい森の印象がより強く感じられた。
森の上には、依然として五色の光が漂っていた。何度見ても不思議な光景だった。
一日中、見ていても飽きなかった。
「あれは何なの?」
「隠蔽魔法で時々発生する光の反応よ。私たちの村は魔法で隠されているからね」
机の前に座っていた母が優しく説明してくれた。
ナマリエは窓に額を寄せた。冷たい空気が肌に伝わってきた。
「あたしは初めて見たわ」
「あなたも見たことあるはずよ。カナリエが生まれた日にオーロラが現れたのだから」
そうだったのか。
あまりにも幼い頃のことなので思い出せなかった。でも、どこかで聞いたことがあるような気がした。
オーロラが現れた日に生まれたエルフは、高貴な運命に恵まれるという話だったか。
ハーフエルフであるカナリエにも当てはまる話かどうかは分からないが。
ナマリエは窓の外の真っ白な風景を眺めていた。
家の外の雪を片付け、食事をし、短い昼寝をする。
今日に限って一日がひときわ静かで、不思議な気分になった。
「今日は村人たちが来ないわね」
「静かでいいでしょう?」
「うん。このまま三人だけで暮らせたらいいわ」
ナマリエは目をつぶった。こんなに平和な一日はそう多くなかった。
母を除く他の家族は、村の人々と仲が良くなかった。
母がエルフの間では、名高い純血種の家の娘であったためだ。
母がどうして暮らしていた故郷を離れたのか、どうして父と出会ったのかは分からない。
しかし、人間の子を妊娠したまま故郷に帰ることが出来なかったことは、明らかだ。
外は戦争中で、夫婦は安全に子供を産める場所が必要だった。
魔法で隠されていて、魔物たちが出入りできないエルフの村が最適であった。
母は縁のある村に身を寄せさせてほしいと頼んだ。
エルフ達は母をとても尊敬していた。しかし、だからこそ、存在を受け入れることが出来なかった。
妊娠中の産婦を夫と離れ離れにさせるわけにはいかないので、父も村に入れたが、みんな父を罪人扱いした。
高貴な血筋を汚した人間を卑劣で恥知らずだと言い、彼らの血を受け継いだ二人の娘の誕生を勝手に嘆いていた。
より高貴な存在に生まれ変わることができたのに、よりによって卑しい血が混じってしまい、その役割を果たせなくなったというのだ。
半端者だけれど、「高貴なエルフの血」が思うままに振る舞うのを我慢できないのか、うんざりするほどナマリエを取り締まろうとしたりもした。
彼女が比較的、父に似ていたからかもしれない。
いずれにせよ、彼らが気に入らないのは全て人間の父のせいだった。
家族を捨てた父をいつも無責任だと言っていたが、実は父がこんな村を捨てて去ったことを全く理解できないわけではなかった。
ナマリエにも機会さえあれば、さっさと捨てて去ってしまっていただろう。
そういえば、母に聞きたかったことを思い出した。
「お母さん。あたし達は、いつラグナデアへ行くの?」
「……ラグナデア?」
母は不思議そうに聞き返した。
「ナマリエはラグナデアに行きたいの?」
「お母さんが行きたがってたんじゃないの? あそこに家を買ってたでしょ?」
母は答えなかった。ナマリエは振り返って母を見た。
「違うの?」
「……どうやって知ったのか分からないけど、戦争が終わるまではダメよ」
母が首を横に振りながら言った。ナマリエはティーカップを置いた。
無駄に癇癪を起こしたくなった。
「隠れて戦争が終わるのを待つなんて、卑怯よ」
「誰かさんはお父さんの娘じゃない。とか言いだしてたのに、お父さんとまったく同じことを言うわね」
母は苦笑いを浮かべた。
「親は時々、卑怯にならざるを得ないのよ。カナリエもいるでしょう? 理解してね」
「じゃあ、住むわけでもないのに家を用意したの?」
「いつかあなた達が離れたくなるかもしれないから」
ナマリエはカナリエのいる部屋を見つめた。妹はまだ起きてこなかった。
とても長い眠りだった。
「お母さんはずっとここに居たいの?」
母は答えなかった。書いている文章に夢中になっているようだ。
ナマリエはティーカップを置いて暖炉に近づいた。
火かき棒を持ち、よく乾いた薪を何度かひっくり返した。見慣れない落ち葉が混じっていた。
彼女は膝を抱えて、火を見つめた。
「今書いているのは、どんな小説?」
「ええと……塔に閉じ込められたお姫様を王子様が助けに行く話よ」
「なぜ助けなきゃいけないの?」
「愛してるから。そして、お姫様が戻ってくることで、王国の光を取り戻すことができるからよ」
暖炉がとても暖かかった。
心地良さから離れるのが難しく立ち上がれなかった。
ナマリエは眠るように目を閉じた。
「偶然ね。この前、カナリエとやった人形劇の内容と全く同じね」
「そうなの? カナリエったら原稿を読んだのね。書いているものには触らないで。って言ってたのに」
仕方がないというように、母親が小さなため息をついた。
ナマリエはにっこりと笑って言った。
「あたしも書いているのを読んでもいい?」
「読んでくれるの? 恋愛小説は嫌だって言ってたじゃない」
ナマリエはようやく立ち上がる。机に近づくと、母は原稿を差し出した。
彼女は一枚一枚めくりながら原稿用紙を眺めていた。
母は気になったのか尋ねてきた。
「どうかしら?」
「うーん……よく分からないわ」
ナマリエは原稿を手渡した。
母はそうだと思った、と言いたげな顔だ。
「うちの娘は何時になったらお母さんの仕事を分かってくれるのかな? 本当にザンネン」
ナマリエは再び暖炉に近づいた。一生を暮して来た家だ。
どんな物がどこにあるのか、目を閉じていても見つけることができた。
暖炉があり、その上に大きな額縁があり、右側には飾り棚がある。
壁には彼女が使っていた練習用の銃が掛かっていた。
父が去った後は一度も握らなかった物だ。ナマリエはその銃を手に取ってみた。
弾倉は空だが、機能はしているようだった。
彼女は引き出しの中から弾薬を取り出し、装填しながら言った。
「多分、ずっと嫌がると思うの。他のはともかく、恋愛小説は読めないわ」
「まだ子供だからかしら?」
よく聞いたことがある。という反応だった。ナマリエは銃を構えて母に近づいた。
「全部、偽物だからよ」
母の前にある原稿用紙を見つめた。
ページは全て空白のままだった。
家を離れて一年が過ぎたが、それでも一生を過ごした家だ。当然、全てのことを思い出すことができた。
しかし、これだけは無理だった。一度も読んだことがなかったからだ。
想像することもできなかった。
恋愛小説に対する幻想のようなものは、最初から持ったことがない。
母が振り返った。ナマリエが持っている銃を見て驚いた表情を浮かべる。
「ナマリエ、家では……」
「悪い魔女の幻覚を破る方法って何か知ってる? 絶対にありえないものを見つけて、ただ壊せばいいんだって」
ナマリエは銃口を向けた。記憶の中の母は、表情を失った顔でナマリエを見つめた。
「お母さんが生きているはずがない。お母さんは、あたしの手で土に埋めたんだから」
***
「あたし、お母さんに再会したら、聞きたいことが沢山あったのよ」
なぜ母とはいつもこんな感じだったのだろう? 母を愛していなかったわけでもないのに、安心して好きになれる瞬間は数えるほどしかなかったような気がする。
ナマリエの指は引き金の近くにあったが、まだ指を添える前だ。
至近距離なので、狙いを定める必要もなかった。
彼女は両手で銃を握ったまま尋ねた。
「なぜあたし達を連れて行ってくれなかったの? 準備は万全なのに。あたしがどれだけここを離れたかったか知ってるでしょ」
「戦争からあなた達を守らなければならなかったの」
「聞きたいのはいつもの答えじゃ──」
「ナマリエ」
母は悲しげな顔でナマリエを見つめた。
銃を前にしても、全く怖がらない様子だった。
「あなたが知らない答えは、私も教えてあげられないわ」
涙が頬を伝って流れてきた。
両手が銃に縛られているため、拭うこともできない。
ナマリエは視界を失わないよう目を見開いて言った。
「あたしはここから出て行かなきゃいけないの」
「戻ればまた苦しむことになるわよ」
「ここにはカナリエがいないのよ、お母さん。あたし達二人だけでは、生きていくことは出来ないの」
母は立ち上がった。
ナマリエは反射的に一歩後ろへ下がった。
母はそんな彼女を見つめ、まぶたを下ろした。
どこか寂しげな表情だった。
「あなたがここにいれば、カナリエもすぐに私たちのところへ来るわ」
「目の前にいるのが本当にあたしのお母さんなら、そんなこと絶対に言わないわよ」
ナマリエが歯を食いしばって言った。
銃を持つ手に力が入る。
「あたしは、お母さんが大嫌い」
ずっと言いたかった言葉だ。
母が傷つくのが怖くて、カナリエが悲しむのが怖くて、今まで言えなかったけれど、ずっとそうだった。
母が憎かった。ナマリエが経験してきた不幸の始まりを辿れば、結局は母がいたからだ。
あんなに高貴な出自のエルフなのに、なぜ人間と恋に落ちたのか、全てが恨めしかった。
なぜエルフ達から自分たちを守ってくれなかったのか、なぜエルフの村に入ったのか、なぜ自分たちを産んだのか、なぜ病まで受け継いだカナリエを苦しめるのか。
なぜ、こんなにも早く、あたし達の元を去ってしまったのか。
母を土に葬る時の感触が今でも鮮明に覚えている。誰もが自分の存在を軽蔑する村で、ナマリエが唯一持っていたものは家族だけだった。
父が去り、母が死んだ。一握りにも満たない家族が次々と去っていった。残されたのは妹だけだった。
母の病気をカナリエが受け継いでしまった。あの時の絶望感は、一生忘れることは出来ないだろう。
人生のあらゆる瞬間を通じても、あの時ほど母を恨んだことはなかった。
「お父さんは去るようにして、お母さんも先に逝ってしまって、今度はカナリエまで連れて行こうとするの? 何であたしをこんなに苦しめるの? 本当に辛くて、辛くて……もう……」
ナマリエは口を開いた。誰かに聞いて欲しかったが、一度も口に出せずにいた言葉があった。
「すごく、さみしいの」
***
『正直に言ってみなさいよ。本当は後悔してるんでしょ?』
手を後ろに組むローレライは、いたずらっぽくクルクルと回り、どこかで聞いたことがあるような歌を口ずさむ。
『黒き龍を殺したところで、何も得られなかったじゃない。結局、あなたに残されたのは何? 瀕死の身体? 散らばった仲間たち? 恩も知らずに、また自分の利益ばかりしか考えなくなった人たち?』
ルドミラは沈んだ目でローレライの動きを追った。
ローレライが手を振り上げた。まとわりついていた霧が少しだけ晴れて、海岸の風景が現れた。
廃墟となった難破船と、腐った身体を動かす亡霊たちが見えた。
船に吊るされたゴミのようなマストが海岸の波に揺られ、あちこちを動き回っていた。
悪臭を放つ光景だった。
『ほら、このゴミのような光景こそ、あなたが救った世界よ! 本当に命まで捧げた価値があったのかしらね?』
「……」
『黒き龍を殺したからといって、戦争が終わるわけがないじゃない。また別の敵が現れて世界を崩し、潰し、滅ぼし、そうして全ての敵が消えて人間だけが残ったとしても、人間同士が殺し合うでしょ。あなたの力で戦争を終わらせるなんて、らしくもない。とても傲慢な考えよ』
ルドミラはローレライの唇を見つめた。
今聞こえてくる言葉が、実際に彼女が言っている言葉なのかどうかは分からなかった。
ローレライの能力は人の心の中に侵入し、彼らが見たい、あるいは見たくもない幻覚を見せることだ。
もしかしたら、これらの言葉も単にルドミラの心を映し出しているだけなのかもしれない。
そのためだろうか、ローレライの口を止めることができなかった。
『黒き龍を殺しても、それ以外の問題が出てくるんでしょう? こんなことなら、わざわざ苦労してまでやり遂げたことに意味があったのか。って思ったりもするわね。どうせ長く生きられないなら、いっそうその場で死んでしまえば、醜い姿を見せなくてもよかったのに。逝ってしまった仲間がいて、話も出来なくなって、生き延びられたことが今となっては、幸運なのか不幸なのかも分からなくなってしまったわね。可哀そうなルドミラ。理解してくれる人はいないのに、もう一緒にいてくれる人もいないのに』
ローレライが近づき、彼女の手がルドミラの両頬を優しく包んだ。
『悲しいわね。あなたらしく死ぬことが、あなたの唯一の願いだったのに』
自分らしさが何だったのか、もう思い出せない。
ローレライがルドミラを抱きしめた。
まるで最愛の人を抱きしめるようだった。
『どうせ帰る場所もないのでしょう? そのままここに残って。そうすれば、あなたが探しているあの子を無事に返してあげるわ。誰かのために犠牲になるなんて、英雄の最後としては完璧でしょう?』
英雄の最後なんて興味ない。
だが、死地に取り残された子供一人を生かすことができるなら、残り少ない命の代償としては、悪くない取引かもしれないと思った。
『最上の幻覚で、最も幸せな死を迎えるようにしてあげる。私の古い友人に、それだけの誠意は見せられるわ』
散っていた霧が再び集まり始めた。先ほどより一段と濃くなった。
片方だけの視界がぼんやりと白くなった感じがした。
もしかしたら、誰かからもらった薬の効力が切れてきたのかもしれない。
ルドミラは目を閉じた。もうどうでもいいという気がしてきた。
(『面白くないね』)
はっきりとした声が耳に入った。
ルドミラは目を見開いた。手の中に風の気配が集まっていた。
彼女の意思ではなかった。
自分の手を見下ろすと、白く光っている銃身が見えた。
そして、銃声が響いた。
***
母が一歩近づいてきた。
ナマリエはまた一歩、後ろへ下がった。
母は切なそうな声で語りかけた。
「お父さんは私を捨てたわけではないのよ」
「聞きたくない」
「ナマリエ」
ナマリエは首を横に振った。
彼女の気持ちも知らずに、いつも父を庇う母には、もううんざりしていた。
母はナマリエに触れようと手を伸ばしたが銃身に阻まれ、結局、手を引いた。
母は再び口を開いた。
依然として悲しそうな声だが、どこか優しさを感じる声だった。
「私は捨てられたのではないのよ。ただ、お父さんと別れただけなの。生きていればこんなこともあるわ」
ナマリエは目を開けて母の姿を見た。
母は机に近づき、簡易的な本棚に並べていた本の一つを取り出した。
本を開いたが、やはりそこには文字はなかった。
母は真っ白なページを見下ろしながら伝えた。
「おとぎ話の世界はいつも幸せなわけじゃないわ。悪い家族にいじめられたり、魔女の家に閉じ込められたりするの。おとぎ話であれ、現実であれ、幸せな瞬間はいつも苦しみの狭間から思いがけずに訪れるのよ。現実がおとぎ話と違うのは、幸せな瞬間で話を止められないことだけよ」
母の視線が窓の外に向いた。
白い雪原で、すでに去った人の足跡を辿るようだった。
「あの人の手を握った時、いつか必ず別れることが分かっていたの。私が病気にならなくても、あの人が去らなくても、人間とエルフなのだから。一緒にいられる時間は、あっという間に過ぎ去るのでしょうね」
「……」
「別れは悲しいけれど、その悲しみが私を壊さないことも分かっていた」
母は持っていた本を本棚に戻し、そして再び一歩近づいた。
ナマリエは今度こそ引き下がらなかった。
母の手が銃口に触れた。彼女は身動きが取れなかった。
「ナマリエ。永遠に幸せな瞬間を迎えたいなら、ここで止まりなさい」
珍しく毅然とした声だった。
ナマリエはどうすることもできず、ただ銃を握った手に力を込めた。
母の手が優しく銃口を包み込む。
「でも、次に続く物語が痛みだけであったとしても、ページが続くことを望むなら……」
母が握った銃口を下ろした。自分の心臓を狙うように。
「戦う準備をしなさい」
ナマリエは息を止めた。
涙が流れ、何も言葉が浮かばなかった。
こんな時、何を話せば良いのか分かるはずもなかった。
しかし、母は伝えるべき内容を明確に知っているような表情で口を開いた。
「そのかわり、一つだけ覚えておいてね」
母は微笑んだ。窓の外のオーロラと同じくらい輝かしい思い出だった。
「あなたの言うとおり、現実はおとぎ話の中ではないわ。でも、例えそうだとしても、あなたの物語がハッピーエンドで終わらない理由は、どこにもないのよ」
***
突風が吹き荒れた。
ルドミラの周囲にあった霧が強風で海岸まで押し寄せた。幻覚が破れたのも一瞬だった。
我に返ったルドミラは、自分の体にまとわりつくローレライを乱暴に引き剥がした。
ローレライは突然の事態に戸惑い、一瞬だけ気を抜いたようだった。
その隙を逃さず、ルドミラは稲妻のように引き金を引いた。
今度は彼女の手の中で風が吹き荒れた。
『キャアアアアア!!』
ローレライが悲鳴を上げて姿を消した。
一瞬だが、海岸が完全に姿を現した。
ルドミラは先ほどの銃声が聞こえた方向を見つめた。
海岸沿いの低い崖の上に、一人の少女がうつ伏せになっていた。
乱れた紫色の髪が風になびいた。銃口をこちらに向けた少女が顔を上げた。
ナマリエの姿であった。