[ナマリエ] Happily ever after:11話
狂風が吹き荒れた。
ナマリエは驚きのあまり洞窟の壁に手を伸ばす。
海岸の砂が流されるかと思っていると、信じられないことが起きた。
どこからともなく吹き始めた風が、島上空の気流を渦巻かせた。
最初は小さかった旋風が、次第に勢いを増していく。
霧が揺れた。木々が倒れる音とともに、水蒸気が逃げるように島の外に散らばった。
海岸に押し寄せるはずの波さえも、逆に海へと押し出された。
まるで嵐のようだ。
全ては一発の銃声とともに始まった光景だ。
荒波が洞窟の中まで押し寄せたため、ナマリエはそのまま海水をかぶった。
海水を飲んだ彼女はうつ伏せになり、うずくまった。
『ナマリエさん、大丈夫ですか?』
「大丈夫……大丈夫よ」
ナマリエはかろうじて頷いた。
しばらくすると、嵐のような狂風が嘘のように静まり返った。
彼女はよろめきながら立ち上がり、目の前の風景に目を見開き、ぽかんと口を開いた。
眩しいほど明るい海岸の姿が見えた。
砂の粒まで見えるほど澄んだ空気だった。
「ルディがやったっていうの? これが……傭兵の為せることなの?」
『僕も初めて見ましたよ。こんな力は……』
フィルモはどこか羨ましくもあり、驚嘆しているような顔をしていた。
その時、再び銃声が鳴り響いた。
ナマリエはようやく我に返り、首を横に振った。こうしている場合ではない。
「霧が完全に消えたわけじゃない。また押し寄せてくる前に動かなきゃ」
霧が島外の海を囲んでいた。
じっとしていれば、再び島に押し寄せるだろう。
ナマリエは銃を担ぎ直し、洞窟の外へ抜け出した。
彼女はルディと一緒に走った海岸沿いを今度は逆に走り始めた。
しばし狂風に押し流されながらも、まだ倒れない亡霊たちがいた。
しかし、彼らはナマリエに襲いかかることなく、うろうろとしながら森へと入っていった。彼女は海岸を走りながら森を眺めていた。
次々と銃声が鳴り響き、木が倒れるような音が聞こえた。その度に島の気流が揺れた。
亡霊たちはローレライを守るために必死に走っていた。
たった一人のエルフが暴れているとは思えない光景だ。
ナマリエは走りながらも、バカバカしく思った。
「……あれほどの力なら、生き延びられるんじゃないの?」
『霧は一瞬押し出されただけで、島の主を見つけ出さなければ、結局ここから抜け出せないのは同じです。それに森を傷つけるだけでは、主を見つ出すことは出来ませんよ』
言われてみれば、あれは単に「今からお前を殺しに行くぞ」という、ある種の威嚇のようなものだ。
亡霊を誘い込むと言いながら、まさかあんなやり方だとは思わなかった。
ルディは否定するだろうが、やり方は単純明快である。
ナマリエは走るのを止めた。先程、降りてきてルディと合流したあの崖が見えた。
急いでそこへ向かい、今度は登って行った。
彼女の記憶が正しければ、匂いがする場所からしばらく進むと波の音が聞こえた。
そこからルディを発見しのだ。
だから、ハルクベインもそんなに森の奥深くにあるわけではないはずだ。
しかし、いざ崖を登ってみると、状況はそれほど容易ではなかった。
先ほどの狂風のせいか、木々が片側に倒れていた。
ハルクベインはまっすぐに伸びる木なので本来は見通しが悪くないのだが、背の高い木が倒れていると四方が全て遮蔽物だらけのように見えた。
「ちょっとやりすぎじゃない?」
『足跡も残ってそうにないですね……』
森の中に足を踏み入れたものの、道を切り開くのも一苦労だった。
しばらく考えていたナマリエは、途中で適度に太い枝を一つ拾った。
彼女はバッグから短剣を取り出し、枝の皮を削った。
内側まで何重にも削り、四方に広げるようにした後、バッグから火打石を取り出した。
ナマリエが何をしようとしているのか気づいたフィルモが、その間に乾いた草を集めてくる。
以前と違って手は凍りついてはいないが、それでも火を起こすのは簡単ではなかった。
焦っているから余計にうまくいかないような気もする。
やっとの思いで火を起こした彼女は、それに息を吹きかけ育てた後、木の枝に移した。
皮がむき出しになった枝にはすぐに火がついた。
皮を剥いでいない枝の根元には火がつかないので、まるで松明のようになった。
ナマリエは遠くの海岸を眺めた。
海まで押し寄せたはずの霧が、すでに海岸まで集まってきていた。
思っていたよりも時間がない。彼女は持っていた松明を倒れた木の断面に当てた。
削った火打石の粉まで振りかけると、しばらくして火が燃え移った。
『ただの枯れ木に火をつけるんですか?』
「森が広すぎてハルクベインを見つけ出すのが間に合わないかもしれないの。こうしておけば少しでも燃え広がるかもしれないわ」
ナマリエは立ち上がり、再び松明を手に取った。
周囲は倒れた木だらけだ。
彼女は周囲の風景を眺めながら、とてもすっきりとした声で言葉を発した。
「あの村に住んでいて、火をつけたいと思ったことが何度もあったのよ。ようやく願いが叶うわ」
***
ルドミラは周囲に見える木々や群がる亡霊を一斉に倒しながら、森の奥へと進んだ。
亡霊の数が多すぎることもあり、木を倒しておいた方が、火が燃え広がるのに有利だと思い積極的に動き回っていたが、正直なことを言えば簡単ではなかった。
すでに一度、霧を追い払うことでほとんどの力を使い果たしたからだ。
その時、空に一筋の煙が見えた。何やら興味津々の声が聞こえてきた。
『ふむ、もう仕事を終わらせたのかな?』
「煙が弱すぎる。ハルクベインじゃあない。とりあえず火種でも作っておいたのだろうねえ」
ルドミラは息を吐き出しながら答えた。耳元の声が小さく、くすくすと笑った。
『霧はもう海岸の奥まで上がってきたわ。このままだと、また森を覆うのもあっという間よ。下手したらあの子が仕事を終えても、君は死ぬかもしれないわ』
「こちらの言うこと聞くたびに、やる気を与えてくれる素敵なパートナーだよ。お前さんは」
『ねえ、死ぬなら私は火の中で死にたいわ。燃え尽きる経験も一度はしてみたいのよ』
「懇願されたなら仕方ないねえ……必ず、海の底に落としてやるよ」
ルドミラはやっと顔を上げて正面を見上げた。
まだ折れていない木々の間に、記憶の中に残っている建物が見えた。
ローレライがこの島を占領する前に使っていた囚人たちの収容所だった。
まるで収容所というよりは、要塞のような高さの建築物だ。
木を倒して亡霊たちの進路を塞いだルドミラは、再び収容所の方へ移動し始めた。
「押し寄せる奴らが多すぎてキリがない。一度に消し去るかねえ」
『建物まで壊すとなると、力を出さないといけないと思うんだけど? 疲れているのにどうなることやら』
「しばらく休んでいたから気が抜けたのかねえ? あの程度、壊すのに力なんて必要ないよ」
ルドミラが淡々と答えた。
収容所の奥には高い監視塔が四方にある。うまく倒せば、廃墟にするのはあっという間だ。
石造りの建物なので、むしろ崩壊しやすいかもしれない。
ただし、使える弾が残り少ないので、計算は正確でなければならない。
彼女は目の前に迫り来る亡霊を粉砕し、飛び越えながら地面を蹴った。
風を踏みしめながら走ると、目的地はあっという間に近づいてきた。
一気に収容所の門を壊して中に入り込む。
建物内にも囚人服を着た亡霊たちが、閉じ込められたまま歩き回っていた。
ルドミラは監視塔へ上る道を見つけ、勢いよく駆け上がった。
知能のない亡霊たちは、階段や段差のある障害物が存在すると簡単に上れず、しばらくさまよっていた。
いくつかの亡霊が彼女を追って階段を上ってきたが、一方向の通路なので問題にならない。
ルドミラは収容所の壁に沿って歩きながら、亡霊が集まるのを待っていた。
『前にも思ったけど、私とは相性が悪いわね。美学がないというか……』
今回ばかりはルドミラも同意せざるを得なかった。
四方八方から這い出てきた亡霊が、彼女を目掛けて収容所に押し寄せていた。
城壁に上っているルドミラを探すために、壁に頭をぶつけたり、何体かは監視塔を上がってきたが、城壁に辿り着いた途端、バランスを崩して下に落ちた。この島の中にこれほどの亡霊がいたことに驚くばかりだ。
入れるだけ入れた。さあ、網を回収する時間だ。
いちいち殺す必要もなく、ここへ縛りつけておけば十分だ。
ルドミラは門が壊れた城壁に向かって引き金を引いた。
土砂崩れのような音とともに城壁が崩れた。これからが勝負だ。
***
地震でも発生したかのように地面が揺れる音がした。
ぽつりぽつりと木に火をつけながら移動していたナマリエは、顔を上げた。
倒れた木々のせいであまり視界が良くない。
「何の音?」
フィルモが斜めに倒れた木に飛び乗った。高いところから両手で日よけを作ったフィルモが遠くを見つめていた。
しばらくすると、彼の口から面食らった声がした。
『建物が崩れています』
「建物?」
『はい。何の建物かは分かりませんが、監視塔があり……まるで要塞のような……』
もはや誰の仕業か聞かなくても分かることができた。
ナマリエは首を横に振りながら言った。
「エルフじゃなくて龍だと言われても信じるわ。あれぐらいでないと傭兵になれないのなら、あたしは食堂の仕事を続けようかしら?」
『そんなことないですよ。どのような騎士でも、あの力は……』
フィルモは言葉を濁した。
ナマリエは目を大きく開けた。二人は同時にお互いの顔を見つめ合った。
鼻先を刺すような奇妙な匂いがしたからだ。
彼女は焼け焦げる煙の匂いの中でハルクベインの匂いを探そうと必死に鼻を鳴らした。
眉をひそめながら四方を見渡すと、まだ木の上にいたフィルモがその場でぴょこぴょこと跳ねた。
『あそこです、ナマリエさん!』
フィルモがある方向を指差した。
ナマリエはフィルモと一緒に急いで匂いのする場所に移動した。
そしてすぐに、彼がなぜそんなに早く方向を特定できたのか、その理由に気が付いた。
木々の間に、黒く腐った枯れ木が見えた。
霧がかかっている時は分からなかったが、昼間に近くで見ると明るさがはっきりしていて、遠くからは見ても分からなかった。
ナマリエは鼻をつまみながら、死んだ枯れ木の墓に近づいた。
傍によるにつれて、開いた口が塞がらなかった。
彼女は生きているハルクベインを見るのは初めてだった。
見つけたらすぐに伐採し、切った場所に印をつけるのが森の番人の規則だからだ。
何十年も人の手が届かない森にあるその木は、まるで数百年前の古木のようだった。
幹の細い木々の中で見ると、より重厚感がある。
ナマリエはハルクベインの近くまで歩みを進めた。葉がなく、枝だけが茂っているのは冬だからなのか、それとも元々このような木だからなのかは分からない。
近づくにつれ、手に持っている松明から火の粉が飛び散る。
彼女は慌てて松明を床に転がして火を消した。
このまま持って近づいてはいけないと察したからだ。
遠くから投げれば届くだろうか? 直線方向には他の障害物は見えなかったが、ちょうどその時、ハルクベインの下に、まるで根っこの間のようながらんとした空洞が見えた。
ナマリエは空洞を見つめた。先ほど火を消した枝には、まだかすかな火の粉が残っていた。
彼女は数歩後ろに下がった後、まっすぐに走って木の枝を勢いよく蹴り飛ばした。
飛んでいった枝は、何度か転がりながらハルクベインの近くまで行った。
しかし、何も起こらなかった。
『思ってたよりも、すぐに火が付くわけではないみたいですね』
フィルモが頷いた。
慌てて行動しすぎたのだろうか? しかし、無闇に近づくのは気が進まない。
しばらく悩んでいたナマリエが、フィルモを呼んだ。
「フィルモ」
『はい、ナマリエさん』
「ここからあの枝を風で飛ばせるかしら? 壊さないように、あの木の下までね」
しばらく首を傾けたフィルモは、ゆっくりと頷いた。
『出来そうです。ナマリエさんも風を扱えるようになったのですから』
最初は何て無駄なことかと思っていたが、半信半疑ながらも練習しておいて正解だった。
ナマリエはフィルモの銃を持ち、そのまま姿勢を低くし、先ほど蹴り飛ばした木の枝に向かって銃の照準を合わせた。
枝を狙った風が、真っ直ぐに発射された。
銃口を空に上げて立ち上がったナマリエは、木の枝がハルクベインの下に転がっていくのを見た。
火を消したせいか、枝は転がっている間も静かだった。
火の粉が飛び散るような気もしたが、昼間だからかあまりよくは見えなかった。
「……やっぱり直接行って──」
その瞬間、火が爆発した。
ナマリエは驚きのあまり声をあげた。
爆発音を立てながらハルクベインの木の下で連鎖的に爆発が発生した。
火は炎となり瞬く間に全体へ燃え広がり、さらには周囲の枯れ木にまで燃え移り始めた。
彼女は考える暇もなく後ろへ振り返り、走り出した。煙が鼻先を突いた。
燃え広がる速度が思っていたよりも速すぎた。
こんなにも一生懸命走っているのに、背中が熱くなる。
ナマリエは咳き込みながらも、後ろを振り返ることなく走り続けた。
来た道にも火をつけていたので、ナマリエは少し方向を変えて必死に逃げ出した。
しばらくの間、夢中で走ったところ、遠くに霧が見え始めた。
海岸から再び押し寄せてきた霧が、いつの間にか再び森を覆い始めたようだ。
彼女は後ろを振り向いた。巨大な真っ赤な炎が飛び交い、煙が辺り一面に充満していた。
どこからか風が吹いてきて、炎をより速く燃え上がらせていた。
任されたことは全て終わった。あとは再びルディと合流するだけだ。
ナマリエは、霧の中へと飛び込んだ。