自分の基準と乖離する手法を弾くのは早計?
素朴な疑問ですが、不特定多数に呼びかけるときにその相手を罵倒するってどうなのでしょう。
*ただの疑問です。
この筆者を非難する意図はなく、賞賛する気もありません。
まず 題名からして<(バカ丸出しの日本国民)>。
日本国民に聞いてもらいたいはずだが、その国民達を<バカ丸出し>と吐き捨てている。それも初っ端から。
その後もバカ・愚かという罵倒を飽きるほど繰り返している。
話を聞かせるための手段とは
聞いてほしい相手が興味持つ情報・見出し
危機を煽る・知らせる
強い口調・断言するなどで強く印象付ける
などだろうか。また、何かを非難する場合は、聞いてもらう相手以外を対象にするのがほとんど。
聞いてほしい相手に何か言うとしても、批判の範囲にとどめるのが基本ではなかろうか。
非難・罵倒の域に達してしまえば、筆者への反感や腹立たしさに塗り潰されて、話を聞く段階に行かないような気がする。
あるいは主張の粗探し・批判する箇所を探すだけになる。
何にせよ主張の肯定を遠ざけるだけ。
ましてや同意を求める・考え方を変えてほしいなら、
聞かせる対象への罵倒は悪手でしかない気がしてならない。
一方で筆者には
聞かせる対象を限定する?
同じように日本国民を馬鹿だと思い、かつ”自らはその馬鹿に入らない”と思っている読者だけに聞いてもらう
それ以外の読者は端から期待しない
怒りは動く原動力の一つ?
あえて癇に障る手段を取って、(粗探しのために)読ませようとした・考えさせようとした
等の意図があったのかもしれない。もしそうなら、
・深い考えがある
・別視点から見ると有効になりうる
・目的からして違う
等を見落としていた、ということになりうる。そう考えると
やり方が自分と乖離していても弾くのは早計
なのかもしれない。
考えさせられる出来事でした。