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反省の大切さを教えてくれてありがとう
今回の目的は戒めです。
こうはなるまいと自分を戒めるため、書かせていただきました。
最近このような文章を見つけました。
この作者への印象は
『文豪気取り』
でしょうか。
何様・思い上がり・省みたら死ぬ人種 などいろいろありますが、これが一番しっくりくるかと。
以下引用
「でかい主語」を使う意義は、文章のキレ、インパクト、立場の表明などにあると延べました。さらにこの「でかい主語」には、もうひとつ隠された文章テクニックが潜んでいます。それが<前提を行間に委ねる>です。
上記の小山田氏の記事で考えてみましょう。
そもそもミュージシャンが誰しも小山田氏のような人間でないとは誰でも分かりますよね?
ということは、そこはもう書き手と読み手の共通認識となるわけです。
共通認識だったら省略してもいいはずなので「ミュージシャンが誰しも小山田氏のような人ではない」という前提でそれを行間に委ね、あえて「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」とでかい主語で書いてあるわけです。
読解力のある読者なら「ミュージシャンなんてだいたいそんなもんです」という一文を読んだとき、『ん?ミュージシャンが全員小山田氏のような人ではないはず、この作者もそれぐらいの常識はあるだろう……てことはそこが前提であえて省略してこう断定しているのか…』と理解できるはずです。これがいわゆる「行間を読む」ということです。
正直25歳過ぎてこうした能動的理解が出来ない人は読解力が決定的に足りません。「主語がでかい」は、こうした読解力が不足しているが故の早とちりです。
ですから「主語がでかい」と批判している人は「ぼく、行間が読めません」と言っているようなものです。
介護を頼むなら金と敬意を払おう
この筆者にとっては、前提を行間に委ねるのは書き手の技術のようです。
『書き手と読み手の共通認識(のつもり)の部分は書くのを省いていい』、
『省くのはむしろ「書き手の腕がいい」』 らしいです。
「隠された」文章「テクニック」・「あえて」でかい主語で書く など、くどいぐらいに誇示してますしね。
はっきり言います。これ技術なんかじゃないですよ。
行間を委ねるって、ただ書くべきこと書いてないだけでしょう。
書き手が書いてない考えを、言わなくてもわかってもらえると都合よく解釈
そして書く必要ないと勝手に決めつけて省く
読者に通じないのは読者の読解力不足のせい
書き手の説明不足のせいとか表現が悪いとか微塵も考えない
書くべき説明を怠ったツケを、行間をよませるだの想像で補わせるだので読者に払わせる。*1
作者の介護は読者の役目ではありません。
*1 重要な情報が書いてない→読者が想像・補完しないと文章が成り立たない→仕方なく読者が考える羽目になる というのはどうかと思います。
読者が自然と想像したくなるなら別ですが。
ましてや、伝わらなかったのが「読解力が足りないせい」って・・・・。
読者の介護は作者の功績、作者の介護は読者の責任
この行間を読む云々の主張って
「部下の手柄は上司のもの、上司の失敗は部下の責任」
の発想だと思うのですよ。
書き手が「あえて書かない」行間を読者が気づけば、それは書き手の「文章テクニック」という名の手柄
つまり読者の行間を読んだという手柄を書き手が横取り
気づかなければ読者の無能のせい。書き手の言葉足らず という失敗は読者の責任。
書き手=上司、読者=部下 と考えれば完全に一致します。
・・・どこぞの銀行常務にでも転職なさったらいかがです?
別の引用です
小山田氏を例に挙げ「ミュージシャンなんてだいたいそんなもん」と述べることの危険性は、いっぱしの物書きなら誰でも理解できます。
あえてそれを行うのは前述のような意義があるのと、さらには『読者は行間を読めるはずだ』『読者は馬鹿ではない』という信頼と尊敬の念があるからです。
僕が「ミュージシャンなんてだいたいそんなもん」の後に「もちろんそうでない人もいるけど」と足さないのは、そういう理由もあります。
そして、その行間をしっかりと読み取れる読者も確かに存在します。
ただ残念ながら、書き手の敬意が届かない読者がいることも事実です。
個人的には様々な理由で後者は切ることにしています。
そちらに合わせると文章の質が下がるのと、内容が面白くなくなるので。
ご立派な心がけですねぇ
信頼だの敬意だのぬかしてますが、かんなで削るより薄っぺらい。
読者って不特定多数でしょう?
相手の地位も職業も実績も能力も何一つ知らない以上、信頼や敬意って抱きようがないはずですよ。感謝ならともかく。
それに、期待した結果が出ない時こそ、信頼・敬意って試されるのでは?
たった一度、「行間を読めるはず」というあなたの信頼(という名の甘え)に応えられないだけで掌返すのが、信頼ですか?敬意なんですかね??
むしろ、信頼とかつけときゃ何要求してもいいとか考えてませんか?
期待する結果が出なかったら「信頼に応えられなかったお前が悪い」に持って行けるし、便利ですよねえ?”信頼”とか”敬意”って。
物書きに必要なのは顔の皮膚?
<書き手の敬意が届かない読者がいることも事実です。個人的には様々な理由で後者は切ることにしています。
そちらに合わせると文章の質が下がるのと、内容が面白くなくなるので。>
見事な殿様商売ですね。文才だけでなく商売の才もおありのようだ。
あなたの支持者は、こんな扱いしてても泉の如く湧き出てくるのですか。
羨ましいことです。
それと、大した文豪様ですね。
質が下がるだのつまらなくなるだの、
こんな物言いが滑稽にならないほどの実力・実績を持っておられるのですね八幡様は。
いやはや敬服いたしますよ、その御面相の分厚さには。”書き手の敬意”とやらが届かない相手も面白いと思う文章を書くのが、”いっぱしの物書き”だと思いますがね。
ゲス顔氏「行間を読む能力がなければ、本を読むことが許されないのだろうか?」
ゲス顔氏(いろんな漫画のレビューをされている方です)が以下の動画を投稿されています
1:16 行間を読むのは「読者側の能力」とされている点があまり好きではない。
1:28 行間は読者が読むものではなく、作者が読ませるもの。なぜなら、その作品によって読者に伝わる内容とは本来、作者側が読者に伝えようとしていることであるはずだから
3:10 読んだ側に意図が伝わらなかったときに、書いた側が「行間が読めない人間だ」というのは人格攻撃であり、「相手の能力が足りない」と言い放っているに等しい。
それは。文章創る側から言っていいことじゃない
6:08 例えば、少年漫画で書いた側の真意が読み手に伝わらないなら、書き手側がダメ。なぜなら少年漫画は少年が読むもの。小学生が読んでわかる内容にしなきゃいけない
6:28 小学生に「君の教養が足りないんだ」なんて言う大人がいたら呆れるしかない
8:12 文章の意味・作品の内容について理解できない人がいたとしても、それに説明を尽くすならともかく、
「行間を読めない奴には伝わらない」と、書いた本人が言うのはありえない
これ以上なく完璧に、八幡氏にぶっ刺さってますね。
そして、この動画へのコメントでこのようなものがありました。
<肝心なのは、ゲス顔さんが仰る通り「書き手が行間を読む事を読者に強要する」といった思い上がった考えを持たない事でしょう。
もし「全部書いてハッキリさせてくれなければ解らない」という不満が出て来た時は
それは作品を読んでくれたからこそ出てきた不満なのだと言うことを書き手が理解するべきでしょう。>
これまた綺麗にぶっ刺さってます。
特に「読んでくれたからこそ出てきた不満」というのは忘れてはならないことです。
まとめ
文豪気取り
身の程知らず
反省しない
自分の非を考えさえしない
広辞苑並みの面の皮
こうならないように、自分も肝に銘じます。