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採用者に破格の好待遇を提示した理由 【ADHDは荒野を目指す】

5-27.

 台湾人と結婚し台北に移住した僕は、日本人向け学習塾を設立しますが、元の勤め先である塾・H舎から、再三の嫌がらせを受けた上に、三千万円の賠償金と営業停止処分請求の民事訴訟を起こされ、窃盗容疑で警察にも訴えられ、さらにH舎の関与が疑われる誘拐未遂事件も発生。

 それでも、それら全てを切り抜けることに成功。
 開業より二年、ようやく他人を雇う余裕が出来た僕は、まず義妹イーティンを事務員として確保。
 その上で、日本人講師の募集広告を出します。

 するとすぐに、一人の台北在住の日本人女性が応募してきます。
 面接してみたところ非常に良い人材であるように思えたのですが、僕の提示した待遇が良すぎるとして、妻や義妹は僕を批判します。

 僕のH舎入社当初のそれよりも、さらに良い物なのです。


 それでも僕は、彼女に好条件を提示しなければ、と思います――後ろめたい思いがあるために。

 と、いうのも。

 台湾にて、外国人が就労ビザを得るのは簡単なことではありません。

 基本的には、外国人は、政府機関に直接ビザの申請をすることは出来ません。
 その外国人を雇用すると内定した会社を通して、初めて申請できるのです。

 それでも、内定を貰ったからと言って必ずビザが下りるとは限らない。
 会社の規模に応じて、許可されるビザの数が違ってくるのです。
 中小企業などでは、一人二人分のビザしか出されません。

 だから、台湾の中小企業は、日本人を雇ってビザの枠を使ってしまうよりも、日本語のうまい台湾人か、台湾人と結婚している日本人を雇うことを優先させるのです。

 っそいて、その就労ビザ発給制限のルールを知っていた僕には、かねてから、不思議に思っていたことがありました。

 僕がアルバイトをしていたM塾、社員として入ったH舎、共に大きな会社ではありません。M塾で社員四名、H舎でも都合十数人にしかならない規模なのです。

 それなのに、社員の殆どが日本人なのです。
 何故こんなにたくさんの外国人を雇用できるのだろう?

 時折、不思議に思ったものです。

 ただ、配偶者ビザを持っている僕にとっては、就労ビザの問題は一切関係ありません。
 だから、必要以上にそれを突っ込んで調べることはなかったのです。

 しかし、H舎との裁判の過程において、少しでも戦う道具を見つけるべく、色々調べ、ようやくそれが可能であった理由を理解します。

 塾に雇用されていた日本人たちのビザは、「特別な技能を持つ人々」の為の物だったのです。
 その技能は、「語学講師」というもの。

 労働者が外国人である必要性があるため、これは、通常の就労ビザよりも発給が容易になっています。
 通常のビザ発給には、台湾の会社の内定だけでなく、技能の証明だとか、十分な実務経験だとかの要件がありました。
 しかし語学講師のビザに必要なのは、ただ「大卒である」ことだけ。

 ですから、「語学を教える塾」での経営許可を得ている塾でありさえすれば、そして採用相手が大卒でありさえすれば、その塾は外国人を何人でも雇用出来るのです。


 これを知った時、僕は微妙な気持ちになりました。

 これは誤魔化しではないか、と。

 確かにH舎には、台湾人を対象とした日本語教育部門もありますが、その収入の柱になっているのは、間違いなく、日本人を対象とした受験指導部門です。
 仕事内容は、「語学講師」では決してない。

 H舎はまた誤魔化をしているのか、本当に酷い塾だな――と思ったのですが。

 しかし考えてみれば――それが許されないなら、僕の塾は講師を雇えるのか、という問題が出てしまう。

 零細中の零細である僕の会社では、普通の就労ビザなど一つも発給されないでしょう。

 つまり、他講師を雇えないことになる。


 そこに気付いた僕は、流石に、考えを改めようとします。

 ――まあ、考えてみれば、語学講師と呼べなくはないか。

 台湾人の観点からすれば、日本人向け塾の講師は、「外国語を用いて指導」をしているのは確かです。
 その点では、日本語講師の仕事と変わりません。

 ただ違うのは、生徒が台湾人ではなく、日本人子女であることだけ。

 その程度の違いなら、語学講師の一種と呼んでもよいのだろう、と。


 実際、かつて僕の塾に来た教育局の調査員だって、僕が日本人相手に受験指導をしていることを聞かされても、その点に関しては一切何も言いませんでした。

 これはグレーゾーン――ですらない、十分合法的なものなのだろう。

 そう思うことにして、その点でのH舎の攻撃はやめることにしたのです。


 だから、僕の塾が「語学講師」として狩野にビザを出す、という点に関しては、「後ろめたい」とまでは思わなかったのですが。

 ただそれでも、採用を決めた狩野に対して、まだ「後ろめたい」気持ちを僕は抱いていました。

 と、いうのも。

 僕の塾は、彼女を、「正社員」として受け入れることは出来ないのです。

 「一年ごと更新の契約社員」にするしかないのです。


 これは、どうしようもないことでした。
 「語学講師」としてのビザ発給は容易ですが、法律上、必ず、「契約期間を一年にすること」と決められているのです。

 勿論更新は出来ますが、解雇――契約打ち止めだって非常に容易になります。

 しかも、この契約社員であれば。
 健康保険こそあるものの、雇用保険もないし、年金保険もないし、退職金もない。有給休暇もボーナスもありません。
 
 いや、それらを支給しても良いのですが、勿論義務ではない。
 福利厚生も皆無なのです。

 労働者の立場が、弱すぎるのです。



 狩野が入社後、こういう事情を知ったら――会社に騙された、と思い、真面目に働かなくなるのではないか。
 それを防ぐためには、ちゃんとこのあたりの事情を説明し、その分良い待遇になっていることを理解してもらえばいいだ、と僕は考えたのです。
 そしてその上で、出来る限り福利厚生も提供する、と。


 けれども。
 妻も義妹も、僕の意見を受け入れません。

 ――そもそも、台湾人だって簡単に解雇されるし、福利厚生だって殆ど存在しない、と言います。

 そう、外国人労働者のそれと違い、台湾人労働者を守る法律は、数多く存在します。

 けれども、その法律の多くは、実効性がない。
 会社は簡単に社員を解雇するし、退職金もないし、給与だって誤魔化されることが多い。訴えても無駄になるのが殆どです。

 ――日本だって、小さな会社ではそんなものでしょう。

 妻も義妹もそう言います。

 ――もしかしたら、そうかも知れない。
 日本にて殆ど社会経験のない僕には、正解が分かりません。
 けれども、確かにそういう酷い会社を描いた小説だとかドラマだとかは、沢山目にしたことがある。

 ――駄目な社員を高給で雇っていれば、小さな会社はすぐ潰れますよ。そうならない為に、最初はお金を出してはいけないですよ。
 妻はそうはっきり言います。

 そうかも知れない。
 確かに、人件費の問題であっという間に潰れる中小企業は多いと聞く。僕の心は惑います。

 ――だから、最初はもっと低い給料にして、良い結果を出してから、その給料にすればいいのです。
 僕は迷います。


 それでも。

 僕はやはり、狩野を最初からその待遇で――週休二日、手取り十五万円という待遇で迎え入れることにします。

 やはり、そもそもその待遇が前提で募集をかけているのです。
 
 「やっぱり能力が疑わしいから低い待遇にする」などと最初に言われれば、勤労意欲も大いに減退するでしょう。

 僕自身、H舎では、面接の際に「給与据え置きの研修期間は三か月」と言われていたのに、「実は研修期間は六か月だった」と契約直前に突然言われたときは、流石にムッとしました。

 それまで、研修期間のものよりも遥かに酷い条件で仕事をしていたからこそ、それを受け入れることは出来ましたが、やはり多少腹は立ちました。


 ――とにかく、出し惜しみはしない。

 それで節約できる金銭よりも、それで失われる信用の方が大きい。

 それで得られる利益による喜びも、それで発生するだろういざこざによる不快さの方が強い。

 ――良い給与を渡さないと、良い社員は来ない。
 ――特に、美人社員は。

 そうして僕は、その条件で狩野を採用することを宣告したのです。


 そんな僕を、妻のリーファは呆れたように見て、分かりました、と言った後、ぽつりと言いました。

 ――でも、もし彼女と浮気したら、あなたを殺しますからね。

 そんなことはあり得ないですよ、と、僕は慌てて首を左右に振りました。

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