チベットではADHDも退屈を感じない 【ADHDは荒野を目指す】
2-16.
朝六時、僕は陽水夫婦と共に、一台のランドクルーザーに乗り込みました。
舗装されているのは街の周囲だけ、あとは凹凸の激しい土の道ですが、流石にランドクルーザー、車は大きく揺れることも少なく、快調に進みます。
後部座席に三人、しかも一人は女性。それまで詰め込まれていた車のことを思えば、十分過ぎる程のスペースの余裕もある。
かつてない程の快適な移動です。
思えば、それまでの移動は、ただただ大変なものでした。
ぎゅうぎゅう詰めの車内、跳ね回る車、そして体調不良や緊張感、不安感。つまり不快な要素が多すぎて、余裕がありませんでした。
それはただストレスをため込むだけの時間でした。
けれどもこの時の僕には、心のゆとりがありました――窓際に座っていたこともあり、風景を心行くまで眺めることが出来たのです。
それは壮大な光景でした。
どこまでも――文字通り地の果てまで続く茶色い大地。短い草が生えているだけ、建物はおろか、樹木さえ生えていない。凹凸少なく遮蔽物のない大地の上、時折ヤギやヤクの影が遠くに見えるだけ、それらも殆ど動くことがなく、まるで静止画のよう。
その向こうには、ひどく青の濃い――藍色にも見える空が広がっているだけ。
かつて中国、インド、ネパール、東南アジアなどを回り、スケールの大きい光景を幾つか目にしてきました。壮麗な遺跡や、遥かな八千メートル峰や、祭りに集まったとんでもない数の群衆などを目の当たりにしたことがあります。
が、チベットの風景は随分と違います。
人や、人工物が、殆ど存在しないのです。
何の装飾も加工もされていないむき出しの自然と、その自然をほじくり返して露命を繋ぐ、僅かな家畜があるだけです。
情報量が少ない、とでもいうべきでしょうか。
だからこそ、すぐに意識が散漫になってしまうADHDの僕でも、そこに時折現れる物に、強く意識が向けられます。
チョルテンと呼ばれる、小さな仏塔。
その仏塔の周りにかけられた、五色の祈祷旗。
白黒コントラスト鮮やかなヤギ達。
その群れを見守る小さな少女。
落差数百メートルはありそうな、巨大な渓谷。
その渓谷の下に転がる、トラックらしきものの残骸。
大地を切り裂くように伸びる、一本きりの電線。
その脇に共産党政府が置いた、「切断すると死罪」という看板。
そしてその広大な大地を歩く、人達。
五体を大地に投げ出しながら、ゆっくりと進む巡礼者達。
楽しい、と僕は思いました。
退屈が苦手なくせに、強い刺激にはすぐに音を上げる、ADHDの僕にとって、旅先での長時間移動と言うのは、常に苦痛に満ちた物でした。
だからこそ、それを凌ぐため、本を多めに持ち、かつ、必ず音楽プレイヤーを携行するようになっていました。
でも、その移動では、その双方とも必要がありません。
僕は何時間もの間、飽きることもなく、ただ食い入るようにチベットの風景を眺めていました。
けれども、そんな素晴らしい移動も、不意に終わりを迎えました。
昼過ぎ、不意に車が停まりました。そして運転手が振り返り、僕に向かい言うのです。
――ここで降りろ、と。
僕は慌てて左右を見回します。
勿論、目標のチャムドという街ではない。そもそも街ではない――一キロメートルほど先に、集落らしきものが微かに見えますが、車の停まったその場所は、ただの荒野の上です。
どうして? 休憩?
急いで尋ねますが、返事はありません。運転手とその助手は、ただ扉を指さすばかり。
僕がひたすら戸惑っているとと、脇に居る陽水が何かを言いました。運転手と暫く話し合い、そしておもむろに、ペンと紙を取り出し、文字を書き始めました。
――この先に警察がいる。外国人は通れない。だから降りろ。
ああ、と僕は安堵の声を漏らします。成程、そういうことか。
この先には街が――おそらくマルカムという街があり、その入り口に警察による検問があるのです。
非開放地区の検問では、外国人は逮捕される。それだけでなく、その外国人を乗せて来た車の運転手も罰則を受ける――罰金や免許停止、下手すれば同様に逮捕されるなどの処分になる、と聞いたことがあります。
だから、運転手が僕を下ろそうとするのも理解出来ます。
でも、大丈夫。そう言いながら僕は、中甸で手に入れていた『入域許可証』を取り出し、それを運転手の前にヒラヒラ掲げました。
これで問題なく検問を通過できる。だからこのまま進んでくれ。
けれども、その反応は期待したような物ではありません。運転手は繰り返すのです――降りろ、と。
いやだから大丈夫だ、と僕が繰り返していると、突然陽水が動き出しました。説得を手伝ってくれるのか――そう思ったその時、陽水の手が、座席の背後に置かれた僕のバックパックに伸びます。
そして、僕の体越しに手を伸ばし、車の扉を開けると、そのバックパックを、勢いよく外に放り投げたのです。
怒るより前に驚きました。急いで車から降りて、そのバックパックを拾い上げます。その途端、背後でランドクルーザーの扉が閉まる音がしました。
急いで振り向くと――その車はもう、走り出していました。
走り去って行くランドクルーザーを、僕は暫くの間ただ呆然と眺めていました。
けれども、いつまでもそうしては居られません。僕は溜息を吐き、バックパックを背負いなおします。
チャムドまで行けなかった。大金を支払ったのに中途で下ろされた。それはとても残念なことです。
でも、仕方がないことだ、とも思いました。
入域許可証の存在なんて、僕も知らなかった。だからあの運転手の対応も当然のことだ。万一その許可証が偽造品だったりしたら、彼自身が大きな罰を受けることになるのだから。
お金は前払いで貰っていたのだし、後々僕から苦情を受けるようなこともあり得ない――つまり、僕をここで下ろすことは、彼にとっては一切損のない、必然の行為なのです。
文句を言っても仕方がない。それにとにかく、快適な移動の末、予定通りマルカムまでは到着出来たのは事実だ。ここで次の移動手段を探せばいい。
それに、とふと僕は思います。もしかしたら、あのランドクルーザーは、検問の向こうで僕を待っていてくれているかも知れない。
そうだ、そうに違いない。だから僕は、予定通り今晩にはチャムドに到着出来るのだ。そう思うと、気力が蘇ってきます。
僕は勢いよく歩き始めました。
二十分ほど進んだところで、前方を塞ぐ木製のバーが見えてきました。脇に小屋があります。検問です。
僕は堂々とそこに近づきます。途端、小屋の中から、警察官が出てきました。色白の漢民族の男性警官が、僕を睨みつけるように眺め、言いました。
――外国人だな?
そうです、と僕は頷きます。そして急いで手に持った入域許可証を掲げます。
――これがある、だから通行に問題はない。
警察官は、その紙にちらりと目をやってから、僕に向かいゆっくりと言いました。
お前を逮捕する、と。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?