『競業避止義務』を無視して良い理由 【ADHDは荒野を目指す】
5-9.
台湾人女性と結婚し、台北に移住した僕は、日本人子女向け進学塾・H舎に就職しながら、H舎の様々な犯罪行為に気付いたことから、そこを追い出されてしまいます。
怒りの念に燃えた僕は、自分自身での開業を決意、数々の障壁を乗り越え、どうにか自分の進学塾を開校、生徒も集まり上々のスタートを切ります。
しかしそこで、H舎の妨害行為が始まります。
様々な嫌がらせ、誹謗中傷。そしてその果てに、三千万円の損害賠償と営業停止を求める訴訟。
しかも、僕は弁護士に、この裁判には勝ち目がないとないと言われてしまう。
絶望を覚えた僕でしたが、それでも簡単に諦める訳には行かない。そこで別の弁護士の所に行くと――彼はきっぱりと言うのです。
――これは勝てる、と。
陳弁護士は、説明を始めました。
――この裁判の争点は、『競業避止義務違反』というものです。
僕は頷きます。
競業避止義務というのは、『ある企業に勤めていた社員が、退職後すぐに同業に就き、元の企業で得たノウハウや機密情報を用いることで、損害を与えてしまう』という事態を避けるために、労働契約に盛り込まれるものです。
基本的には、『高度な技術』を売りにしている企業の為の条項であるようです。
産業スパイの横行を、これで防ぐのです。
けれども、一部サービス業、特に塾業界にとっても、この条項は大事なものです。
塾業界に『高度な技術』など存在しません。
ただその代わり、『人気商売』なのです。
塾は、教室や備品を準備し、宣伝をして生徒を集めた上に、給与を支払い――つまり結構な投資をした上で、講師を教壇に立たせるのです。
その講師が、その教壇で得た「人気」を餌に、生徒を引き連れ独立してしまうとなると――流石に、塾にとってはたまったものではない。
投資をしたのに、その収益をまるごと持って行かれるようなものです。
それを禁じるために、労働契約書に、この『競業避止義務』を盛り込む塾は多い。
当然、塾が、生徒を引き連れ独立した講師を、『競業避止義務違反』で訴えたケースも多くありますし、講師が敗訴したケースも多く聞きます。
そして僕もまた、H舎への入社の際、この『競業避止義務』が盛り込まれている労働契約書にサインをしています。
――退職後五年間、台湾で同業に就いてはならない。もしこの義務に違反し、生徒を引き抜いた場合、該当生徒の五年分の授業料を支払い、競業行為を差し止める。
そう、明記されているのです。
だから、以前相談に行った蔡弁護士も、僕が負けると断言をしました。
競業避止義務違反をしているのは確かだし、厳しいのではないのか――僕は尋ねますが、陳弁護士は、はっきりと首を横に振りました。
そして言います。
――この競業避止義務自体は問題ありませんが、あなたの場合、この条項は、ほぼ間違いなく無効になるでしょう。
と、言うのも。
競業避止義務は、企業を守る為に重要なものですが、同時に、労働者にとっては、『職業選択の自由』を制限されるものなのです。
在職中ならともかく、退職後にまで、一企業に行動を制限されることなど、許されることではない――というのも、正当な考え方なのです。
――だから、企業が労働者にこの『競業避止義務』を課していても、それを有効にするには、企業側は六つの要件をクリアしなければなりません。
そして陳弁護士は、簡単にまとめた表を差し出してきました。
① 守るべき企業の利益があるか。
② その労働者は十分に高い地位であったか。
③ 地域的な限定はあるか。
④ 禁止期間は妥当か。
⑤ 制限される業務内容は妥当か。
⑥ 十分な代償措置が取られているか。
この内、と陳弁護士は言います。
――①から⑤までは、要件を一部満たしていると判断できなくもありません。
①に関しては、生徒を引き抜くことで、H舎の利益は確かに損なわれました。
②に関しては、あなたに明確な地位はありませんでしたが、小さな塾なので、ある程度重要な立場ではありました。
③から⑤について、『台湾にて五年間、講師になってはならない』――というのは、流石に厳しすぎるが、『台北で二年間日本人向け塾講師になってはならない』程度であれば、十分に妥当性はあります。
その場合、損害賠償は減額は可能ですが、勝訴は不可能です。
――ただし、と陳弁護士は言います。
⑥の、「十分な代償措置が取られているか」に関しては、全くお話になりません。
退職後の労働者の就業を、一定期間制限するのですから、企業にとっては、その期間の労働者の生活を、ある程度保証する義務があるのです。
だから企業は、その労働者の在職中から、その代償措置を取らねばなりません。
これは『機密保持手当』であるとしっかり伝えた上で、本来の給与にその手当を加算した金額を、労働者に支払ってなければなりません。
――けれども、そんな措置は一切行われていませんよね?
その通りだ、僕は急いで頷きます。
そう。僕の受け取っていた給与は、歩合給だけ。
そんな手当は一切貰っていませんし、勿論話を聞いたこともありません。
――ですから、競業避止義務が有効になるための重要な要件が満たされていないことになる。
――つまりこの義務は、無効だと見なされ、勝訴になる可能性は十分にあるでしょう。
目の前が一気に明るくなります。
破滅から逃れた――僕は思わず大きく息を吐きます。
しかし。
とはいえ、と陳弁護士はすぐに言います。
――勿論、絶対ではありません。
――契約書の内容にあなたが違反をしたのは明白ですから、それを裁判所がどう判断するかは分からない。
――H舎の訴えが全面的に通ることはありませんが、その一部は認められ、『数十万円の賠償金並びに一年間の営業停止』などの判決が出される可能性は、まだまだあります。
僕は一気にシュンとします。
罰金はともかく、一年も営業停止なんて――あり得ない。
その間の収入がなくなる、というだけの話ではない。
そもそも駐在員家庭は転勤が多い、一年もすれば、メンツも大きく入れ代わっています。
つまり、僕のことを知る生徒の多くがいなくなっていることになる。
一年後営業を再開できたとしても、もう生徒が集まるとは思えない。
しかも、と陳弁護士は言いました。
――その営業停止は、今すぐ――それこそ、明日にでも、実行される恐れがあります、と。
僕は呆然としました。