台北の公園で陰廟を見つける 【ADHDは荒野を目指す】
8ー26.
ADHDであるために、日本社会に馴染めなかった僕は。
バックパッカーとして二十代を過ごした後、台湾人女性と結婚したのを機に台北に移住、日本人向け学習塾を開業。
その後十年近くの間、順調に黒字を上げ続けます。
しかし、台湾人妻と離婚することになり。
さらにその数年後、自己管理の出来なさの為に、元妻の家族によって三千万円を超える資産や、会社の権利等、全ての物を奪われてしまう。
それでも、親からの借金を元手に、どうにか生活を立て直し。
大手塾に裏切られたり、不法就労中に調査員に踏み込まれたりなどの紆余曲折はありましたが。
一年半後には新たな塾を創設、軌道に乗せることが出来ました。
元妻の家族相手の裁判は、会社ごと奪い取られてしまっていたため必要な証拠全てを相手に握られてしまっていたこともあって、完全な敗北。
折しも、父の死という出来事もあり。
それ以上の抵抗を諦め、心機一転、新しい生活を始めようと決め。
穏やかな日々を得ますが。
やがて台湾も、コロナ禍に陥る。
リモート以外の仕事がなくなった僕は、暇を持て余してしまいます。
そんな中、犬を残さざるを得なかった駐在員から、その犬を預かり、共に暮らすことに。
飼い主として、犬の生活を良いものにするべく、出来る限り規則正しく、出来る限り掃除をして、出来る限りしっかり暮らしている中。
毎日夜中、早朝に散歩に出かける公園で、何人かの知り合いが出来ます。
その中に、一人の初老の女性がいました。
最初に声を掛けて来たのは、彼女の方で。
僕に、一枚の犬の写真を見せ、
――この犬がうちの子に噛みついた、あなたも気を付けて。
――次同じことがあったら警察に行く。
台湾には、リードなしで散歩させる飼い主が多い。
勿論糞尿の処理なんてあり得ません。
その上、その犬が他の犬にちょっかいをかけて来ることも多く。
場合によっては、噛みつかれるケースもある。
こちらにしてみれば、飼い犬なのか野良犬なのか見分けがつかないことも多く。
そうなったら、伝染病を考慮して、病院に駆け込まなければならなくなる。
そんなトラブルが多く起こっています。
彼女は、通りがかる犬の飼い主全てに、そういう警告をしていたのですが。
僕と会話した時点で、僕が日本人であることに気付き。
旅行者なのか、と尋ねて来る。
犬を連れた旅行者などいないだろう、と僕が笑って答えると。
でも、こんな場所に住む日本人なんて聞いたことがない、と言います。
駐在員の殆どは高級住宅地天母に住むものですし、留学生は大学の近くに住むもの。
その下町に住む日本人はそうはいない。
少なくとも僕は、近所で日本人を見かけたことはない。
そういう話をしていると。
その女性は、いや、でも、確かにこの近くに、あなたの他にもう一人の日本人がいる、と笑って言います。
確かに、完全に同化していて見た目ではそれと分からない日本人もいるし――僕は何故か殆どの場合一目で日本人と見抜かれますが――、そういうこともあるのかな、と思い。
その人はどのあたりに住んでいるのか、と尋ねると。
女性は、公園の隅の方を指さし、そこだ、と言います。
日本人が公園に住んでいる? どういうこと?
僕が首を傾げると、彼女は、あの廟だ、と言います。
そこには、確かに一つの小さな建物がある。
けれども、物置程度の大きさしかない、レンガ造りの質素な、廟です。
――あそこで、日本人の女の子が祀られている、と彼女は言います。
そんなことはないだろう、と僕は言います。
日本人の女の子が、台湾で死んだ。
そんな話は、聞いたことがない。
勿論、僕の情報源など限られているし、絶対になかったとは言い切れないが。
それでも、もしそれが本当だったとしても、その女の子が、こんな場所で――下町の公園の粗末な祠で祀られるなど、まずあり得ない。
僕がそう言うと。
いいや、と彼女は答えます。
――あれは確かに日本人の女の子を祀った廟だ。
ーーミエコという女の子。
そう断言します。
そこで、その少女をのことを知っているのか、と僕が尋ねると、すぐに、知らない、と答える。
――そう聞いただけの話だから。
――でも、絶対に確かだ、って。
では、誰に聞いたのかを尋ねると。
――お婆さんに。
は?
僕は戸惑い。
そして、ようやく理解します。
この、恐らく僕より年上の女性が、お婆さんに聞いたという話。
それはつまり、戦前――太平洋戦争前、つまり、日本人が台湾を統治していた時代の話でしょう。
その時代のことであれば。
数多くの日本人が、台湾じゅうに住んでいたのは確かですから。
その中で、死んでしまった少女もいるでしょう。
なんだ、と僕は苦笑します。
そして、その後。
犬を連れて散歩を続けている際。
何となく、その廟の近くを通りがかります。
改めて眺めると。
それは本当に粗末な建物で。
普通の廟であれば、無数の神像が所狭しと並べられているものですが、その廟には、そんなものは一つもない。
祭壇らしきものはありますが、何も祀られてはいないよう。
好奇心に駆られて、中に入ろうかとも思いますしたが。
その寸前で、僕は気付きます。
ーーああ、これが陰廟か、と。
台湾に来て十数年。
初めて、それと意識して見る陰廟。
迂闊には入ってはいけない、と僕は思います。