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なぜバッドエンドなのか
最近ショートショート(短い小説)を書くことにハマっている僕。
その数は一月で20ほどになった。
すごく楽しく書けた。
書き始めの構想と完成後の姿が全く違う なんてことも多く、妄想に留めず「実際に書く」というのは新たな閃きや発見があって実に有意義だ。
20個程も書くとある自分の書く物語のパターンというか 傾向が見えてくる。
僕の場合は「殆どがバッドエンド」だった。
狙ったわけじゃない。
自由きままに楽しく書いた結果がそれだった。
あれ?
これって僕の思想がヤバいのか?
バッドエンドを望んでいるというのか。
この博愛主義の僕が。
そんなバカな。
これはじっくりと考察をする必要がある。
こうしてこのエッセイを書き出した次第だ。
僕が物語に求めるもの。
それは「非日常」だ。
日常的に経験できることを わざわざ物語で追体験する必要はない。
本を読む 映画を観る。
そこには絶対に経験できない要素が必要だ。
それがきっとバッドエンドの根源となっている。
別にディストピアを望んでいるわけではない。
かといって平和を望んでいるわけでもない。
ただシンプルに
僕は読者に不思議な世界の一端を垣間見て欲しい。
「絶対にありえない」とは言い切れない不思議な世界を。
え?
なにをカッコつけているのかって?
えへへ。
将来インタビューされた時の予行練習にいいかなと思ってね。
え?
本当のことを言えって?
はい。
本当は
バッドエンドばかり書いて 心が病んでると思われているんじゃないか
こう心配になってきたから ちゃんと釈明をしておこうと このエッセイを書いています。
ただ そんなご心配はご無用。
僕は至って正常であり 普通に社会生活を営む平凡な一般市民である。
「酔っぱらいは酔ってないっていうんだよ!」
てな声が聞こえてきそうだが、無視する。
ここからは僕のターンだ。
(※ずっとおまえのターンだろうよ)
さて、ここからはバッドエンドの魅力をお伝えしよう。
「世の中は悲劇ばかりじゃないか。」
もし、こんな風に思っている人がいたらそれは大きな間違いだ。
世の中は喜劇も悲劇もない。
「普通」が支配している。
え?
そんなことないって?
甘い。
甘すぎて蟻がたかっているよ。
あなたの思う喜劇と悲劇には
「どちらかというと喜劇」
「どちらかというと悲劇」
というものが多分に含まれている。
普通の出来事なのに「どっちかに分類しなさい」
そんな強迫観念にも似た感情があり、知らずしらずの内に感情を分類してしまっている。
殆どが「普通」で「当たり前」なことなのに。
最近の嬉しかったこと
「お餅がおいしかった」
最近の悲しかったこと
「年末年始食べ過ぎちゃった」
ね?
どちらも無理やり分類することは出来るけど「普通」だ。
そしてこの「どちらかというと」で分類される多くのことは喜劇よりなのだ。
朝 目が覚める
ご飯を食べる
誰かと話す
体が動く
うんちが出る
思考をする
目が見える
匂いがわかる
触ることができる
noteを書ける
明日が来る
全部 普通で当たり前な日常だけど「どちらかというと」で分類してみて欲しい。
悲劇ではないはずだ。
これだ。
僕がバッドエンドばかり書く理由。
「日常の殆どは喜劇よりだから」
せっかく時間を使って読むのだから日常では経験できない非日常を体験したい。
これがバッドエンドの役割であり、僕の書く物語がバッドエンドである理由なのだ。
決して僕が病んでいるわけではない。
え?
じゃ喜劇も書いてみろって?
どっちも書き分けることができるヤツが言うセリフだろって?
よーし。
わかった。
ハッピーエンドをお望みか。
書いてやろうじゃないか。
ぜんけいが贈るハッピーエンドを!
ただ 面白くはないぞ きっと。
なにせハッピーエンドというのは日常だからな。
「今日は爪がキレイに切れた。めでたしめでたし」
これでもハッピーエンドだからね。
物語の途中でどんなに悲劇があっても終わりがハッピーだったらハッピーエンドだからね。
フフフ。
創作意欲が湧いてきた。
こりゃハッピーになりそうだ。
ではまた。
次回予告(ウソ)
「ハッピーターンはターンしたからバッドエンドな」
の巻き。