セカンド・ホーム(エッセイ)
秋のお彼岸になり、雨がふり、
ようやく気温も下がった。
今年の夏は、とにかく暑かった❗。と言いつつ、湿気があるので、弱でまだ、冷房をつけている。 窓からの風と、扇風機で、
気持ち良く過ごせる日も、もうすぐかなと、期待している。
さて、今、住んでいる家(部屋)を「マイ・ホーム」または、家族が
同居していれば、
「スイート・ホーム」と言われる。家族がいるから、
必ずしも「スイート・ホーム」ではないかもしれないが。
私は、元は木造の日本家屋に、
家族で住んでいた。(今は、引っ越してマンション) 亡き父が、元気な頃は、比較的、来客が多い家だった。玄関の横に小さな客間があり、そこで、父は、対応していた。父は、ある国家資格を持ち、
現役の仕事中は、よく人の相談に乗っていた。退職してからも、
自宅に相談に来る人がいた。
また、普通の来客も、母がお茶とお菓子を出して、話しを客間でしていた。母は、私の友人が来た時も、必ずお茶とお菓子を出してくれた。両親揃って、甘いモノ好きで、おかげで、私も、和洋両方のスイーツが好き❗である。
だが、父は、子供の私には、
一緒に住んでいたのに、遠い存在だった。とにかく、家では、無口で、挨拶もしない。いわゆる、
子どもの機嫌をとる、こともしない。 ただ、門限には、厳しく、
父が生きてる間は、私の門限は、
夜9時だった。(20才過ぎるまで)
おかげで、大人になり、年をとった今も、わたしは、外出しても、
夜9時を過ぎると帰りたい人間である。
両親が揃っていて、家もあるのに、私は時々、家が息苦しいことがあった。 そんな時、どうしていたか?
母の姉妹である、叔母さんの家へ
遊びに(避難?)行っていたのである。といっても、歩いて行ける距離ではない。電車で1時間くらいのところだった。近所すぎなくて、かえって良かったかもしれないと、今は、思う。 最初は、母に連れて行ってもらったが、さすがに中学生から、一人で電車に乗って、叔母さんの家に行くようになった。 叔母さんの家は、店(商売)をしていた。最初は、洋服屋さんだったが、その後、内装工事の仕事をするようになった。
(家の、リフォームやカーテン制作など) 叔母さんは、主にカーテン制作をしていた。業務用ミシンで、注文された、依頼客のカーテンを全て、一人で縫うのである。
だから、店には、いろんなカーテンやその、見本があった。
叔母さんは、店に行くと、
(店の入口が、叔母さんの家の入口)
いつも「よう、来たね。何もないけど、まあ、ゆっくりしていき。」 と行って、迎えてくれた。
商売をしているので、叔父さんも叔母さんも忙しい。叔母さんは、
ご飯を作る時間もないことが多くて、私と年が近い、従姉が夕食を作ることが多かった。だから、
その従姉は、家事を、完璧にこなす大人になった。
(私はまだ、悪戦苦闘している)
だから、叔母さんの家で食べるご飯は、従姉が作ったメニューだった。従姉は、本を見ながら、試行錯誤して、料理を覚えたらしい。
(叔母さんが、とにかく忙しく、一緒に台所に立つことも、あまりなかった?) 従姉のごはんもおいしかったが、少し味が薄かった。
(従姉のM ちゃん、ごめん❗)
たまに、忙しい叔母さんが、夕食を一から作ってくれることがあった。それが、関西風の「おでん」と「お好み焼き」だった。どちらも、とびきり美味しかった❗。
「おでん」は、ダシがきいて、
すこし辛い味だったが、濃いダシが、おでんの具にしみこんでて、
体がホカホカ温かくなった。
「お好み焼き」は、山芋をすりおろして、お好み焼きのたねに入れて、他にちいさな海老、少し天かすも入れて、キャベツ、豚肉もたっぷり入った、お好み焼きを、
食卓の鉄板で叔母さんが、自ら焼いてくれた。 もはや、「お店」の味❗である。ホワホワで、優しい感触と、山芋のおかげで、ふんわりして、隠し味?もある、醤油とソース、マヨネーズが混ざった、マジで美味しいお好み焼きだった。私は、それを越える、お好み焼きに出会ったことは、ない。
叔父さんも優しい人だった。
商売をしてるから、基本的に忙しいのだが、なぜか、夕食は、
家族揃って、食べるようにしていた、家だった。 私も、叔母さんの家に行った時は、椅子を一つ持ってきて、一緒に食卓をかこんだ。
夕食の時は、私の家とちがい、
叔父さん、叔母さん、従姉、
従兄弟(従姉の兄)が全員、
たわいない話をしながら、食べるのである。私も、チビながら、
会話に参加していた。
その、普通の、自由な?雰囲気に
いつも、私は、ホッとしていた。
ただ、叔母さんも、従姉も口数は、多い方ではない。 でも、無口でもない。
「まあ、がんばりな。」が口癖の叔母さんだった。例えて云うなら、「沖縄のおばあ」みたいな人である。(叔母さんは、沖縄出身ではない)
今は、叔母さんは、年老いて仕事を引退して、息子である、従兄弟に店を任せた。
叔母さんは、父が亡くなり、私が大人になってから、私と母のために、数点のカーテンを縫ってくれた。生地も良いものを使っているので、私は、今も、叔母さんが縫ってくれたカーテンを使っている。 薄いオレンジと、薄い朱色の大きなチェックのカーテン。
(白のレースカーテンも)
私にとって、叔母さんの家は、確かに「セカンド・ホーム」だった。自分にとっての、第二の家。
箱である、家の形だけでない、
そこにいる人たちも含めた、
安心できる、居場所。
今の私には、セカンド・ホームは、ない。 大人になっても、
セカンド・ホームがあったら、良いなあと思う、この頃である。幸いなことに、まだ、叔母さんは、
なんとか元気である。
美味しいお菓子など、持って、
またいつか、叔母さんの顔を見に、訪ねていこうかと、
想っている。では、最後に明日へ
向かう、元気をくれる歌を。
思い出すと 寂しいけど
思い出せないと 寂しいこと
忘れないことしか 出来ない
夜を超えて 続く 僕の旅
歯磨きして 顔洗って 着替えたら
いつもと 同じ足で 出かけようぜ
つまづいて 転んだ時は
教えるよ
起き方を 知っている事
高く遠く 広すぎる 空の下
おはよう 僕は昨日から
やって来たよ
失くせない記憶も 傘のように
カバンの中で 明日へ 向かう
いつか また 会うよ
戻れない
あの日の なないろ(七色)
(BUMP OF CHICKEN🎵なないろ)