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 恋は、叶えたいという気持ちが強いもの。でも叶うことで崩れてしまうものもある。それを崩したくないから、「叶わなかった想い」なんて言って、いまだに逃げている。逃げて、自分に酔って、悲劇の主人公にでもなった気分に浸る。
 でも、恋愛なんてそんなものじゃないだろうか。普通に人生を歩んでいるだけだったら、物語の主人公になんてなれない。けれど、恋をした瞬間、大舞台の上に立ったような、そんな気持ちになる。
 それは錯覚なのか、それとも本当はずっと
大舞台の上にいたのに、気付かなかっただけなのかは、わからないが。
 これは遠い遠い、そしてもしかしたら今も引きずっている、私の過去の想い。
 今は医者として働く私にも、医学生だった頃がある。私は石川県金沢市にある大学で、医学生として学んでいた。彼女とは、その頃から顔見知りだ。しかし、顔見知りというだけであって、ちゃんと話をしたことはわずかしかない。同じ学年であっても、全ての医学生と話す機会などそうそうないものだ。
 とはいえ、彼女は医学生の頃から目立つ人ではあった。成績、容姿ともに、一定レベルを超えていた存在だったから。
 そんな彼女と顔見知りになったのは……彼女にも私のことを認識してもらったのは、研修医になってからだ。研修医として大学で勤務をするのは2年。彼女は医学生の頃から小児科医を目指していたので、小児科の研修医になった。私はと言うと、始めは老年病科研修医として勤務をしていたが、途中で小児科に移動した。そのため、数カ月ではあるが、同じ学年、同じ時期に大学を卒業したものの、彼女の方が先輩になった。
 年齢はと言うと、彼女はストレートで大学に入学しているが、私は一浪しているため、年齢は私の方が一つ上だ。ただ、大学に入るために一浪、二浪などは当たり前の世界だし、卒業試験をストレートで合格できない人も多いため、同じ時期に研修医になっても、年齢が違うというのは、特別珍しいことでもない。
 研修医は研修医。小児科研修医として先に研修を始めた彼女は、私にすれば「先輩」。それは変わらない。
 研修医として、これまで学んできた大学の大学病院で働くというのは、精神的ストレスが多い。いきなり大人の中に放り込まれ、患者さんからは、他の大人と同じ扱いを受けるのだから。知識も経験も足りていない。だから勉強をしているし、新しい知識が身についたり、技術が身に着くことに歓びもあった。周りからの期待もあり、それに対して応えなければいけない、という不安も大きかったが。
 そういう場所に身を置いている研修医同士。自然と距離も近づいていく。いつかは独り立ちをして、小児科医として働くことを目標に頑張る同士であり、ライバルでもある。そんな関係。
 先輩と後輩という間柄で、お互いに退かず、意地を張り続けて喧嘩をすることもあった。純粋に医学のことを考えていたからこそ、退けないこともある。お互いの理想、考え、それが食い違っていれば、出る結論が違うのは当たり前だ。けれど若い私たちは、他の考え方を受け入れられず、酷い言葉を投げかけることもあった。
 だけど口論するばかりではない。一緒に助け合って研究をすることもあるし、一緒に論文を書いたこともある。それに医局で遅くまで仕事をしていたから、休憩室でカップ麺をすすり、眠い目をこすってコーヒーを入れてもらって飲んだこともあった。いつもそばにいる存在。私は彼女のことが気になっていたが、恋愛というよりも、やはり仲間といった思いが強かった。
 そんな風にともに時間を過ごし、私たちは研修医として力をつけていった。
 小児科医は、子どものことを一番に考える医師だ。病気のことを知るには、患者さんを検査するのが一番。しかし、小児科の患者さんは子どもであり、子どもにとって検査をするということは、負担が大きい。だから、本当に必要な検査かどうか、適切な時期であるかどうかも議論しなければならない。
 私たちは、お互いに小児科医としてリスペクトし合い、認め合うようにもなっていった。リスペクトしても口論がなくなることはなかったが、それは自分の考えがあるからだ。折れることはなくても、相手に自分の考えを知ってほしいという気持ちも強かった。だから、納得できるまで、お互いに話し合いをし続けていたというのも、二人の距離を縮める結果になったのだろう。
 それに、研修医という立場上、共通のストレスの元もあった。あの先生はむかつくだとか、あの放射線科技師にこんな時間に検査を出すなと言われただとか愚痴ったり。
 また、お互いにギリギリの時間の中で過ごしていたので、気付いた時に「あの子どもの調子が悪かったから検査しておいたよ」というような、支え方もしていた。だから、二人で食事に行ったり、飲みに行ったり、休みの日が重なれば二人で会ったり、医局の忘年会や新年会では自然と席も隣同士。
 一緒にいる時間が長いのは、お互いが一緒にいたいと思っているからかもしれない、そんな風にも思った。私は、できることなら、ずっと彼女のそばにいたい、そんな風に考えることに疑問を持たなかった。それが、どういった感情から、そう考えているのかなんて考えるよりも先に、彼女は私の傍にいたから。
 しかし、別れは突然に訪れる。私の専門は小児神経科医。彼女の専門は小児循環器内科医。研修期間が終われば、私は東京へ、彼女は大阪へ行くことになった。同じ小児科医でも、専門が違えば行き先も違う。
 わかっていたはずなのに、わかっていなかった。お互いに金沢を出る時、私は何も言葉を持っていなかったのだ。ずっと一緒にいられると思っていたから。何も言わなくても、何も伝えなくても、離れることはないと思い込んでいたから。
「じゃあね」
 そう言った彼女。私は、何も言葉が浮かばない。ただ、時間だけが過ぎていく。
「ちょっと、最後ぐらい、何か言ったらどうなの?」
「あ、ごめん。そうだよね。明日からは、もう一緒に働けないんだよね」
「そうだよ。東京と大阪だもの」
「そうだね」
 勤務先を医局から伝えられた時から、分かっていたことのはずなのに、こんなにギリギリになるまでわからなかった。別れが来るということ。離れなければいけないということ。
「私、大阪でもっと腕を磨くよ」
「うん。僕だって」
「負けないからね」
「うん、僕も。頑張っていこうね」
 彼女はそう言って微笑んだ。そして、私に背を向けて歩き出す。その後姿は、とても寂しそうで、か弱そうで、まるで一人の少女だった。でも私には、その背中にかける言葉が思いつかなかった。
 その後、私たちはお互いに何度も、転勤を繰り返した。私が埼玉に移動した時、彼女は静岡に移動。決して同じ場所で働くことはなかった。埼玉と静岡であれば、新幹線で1時間で行ける距離なのだが、あえて連絡を取って会おうとはしなかった。どうしてなのかはわからない。いや、わかっていたけど、わからないふりをしていたのだろう。
 別れの時に何も言えなかった私。それが、移動で多少近くになったからと言って、今さら何と言って会えばいいのか。連絡を取って、無視をされたらどうしたらいいのか。私は怖かったのだ。ただ、私は病院で勤務しながら、今頃彼女はどうしているだろうか、とだけ考えることはあったが。
 それからまた時間が過ぎる。彼女のいない毎日が当たり前になってきた。そんな風に思い始めた頃、仙台で開かれた学会で彼女と再び巡り合った。金沢で別れてから、すでに十年の月日が過ぎている。
「久しぶり!」
 彼女は私を見つけると、手を振って近づいてきてくれた。十年ぶりの彼女。そこには、か弱い少女ではなく、大人になった女性がいた。自分に自信のある大人の女性が。
 その瞬間、私の心臓の奥がドクンと鳴る。これまで、ずっとふたをし続けていた感情が、抑えきれなくなった。
「好きだ」
 気が付くと私は、その言葉を口に出していた。もう私には妻と子どもがいたし、彼女の左手の薬指には銀色のリングが光っていたのに。ただ、ずっとせき止められていた、その言葉だけが、口から漏れ出た。
「えっ?」
 一瞬彼女の表情が、別れた時の少女の顔になる。だがすぐに、彼女は大人の女性になり、大きな口を開けて笑った。
「今、何て言ったの? 聞こえなかった。もう、久しぶりに会ったんだから、もっと笑顔になれないの?」
 そう言って彼女は、私の背中を叩く。全てはもう遅すぎたのだ。叶えるには遅い恋だってある。
 私は十年をかけて、ようやくこれを「恋」だと認めることができた。
「元気そうで何よりです先輩」
「君も元気そうでよかったよ後輩君」
 先輩と後輩という関係は、これからも変わらない。小児科医として働き続ける限り。いや、小児科医を辞める時が来たとしても、きっとこの関係は変わらない。もう変えることができない。
 仙台での学会以降、私は彼女と会っていない。だがいつかまた、どこかの学会で会うことはあるだろう。それが、何年後、何十年後かはわからないが。
 少女だった彼女の姿は、私の心の奥にある宝物。誰にも見せることのない、一生の宝物だ。

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