見出し画像

世界本質論

世界本質論
著 猫狐冬夜 Catfox Winternight

目次
1 世界本質論
1-1 存在
1-2­ 因果
1-2-1 機能と非存在性
1-2-2 不完全性定理
1-3 物理法則
1-3-1 物理法則の分解
1-3-2 量子力学
1-4 実在
1-4-1 実在とは
1-4-2 実在と因果律の公理
1-5 脳と存在界
1-5-1 私の世界と私の脳の関係
1-5-2 他者の世界と他者の脳の関係
1-5-3 感覚の公理性、不確実性
1-5-4 私は何処まで私か
1-5-5 脳
1-5-5-1 内在と外在
1-5-5-2 脳が特異な理由
1-5-5-3 それら本質の主従
1-5-5-4 現象報告のパラドクス
2 内在本質論
2-1 快辛時間次元
2-1-1 快辛と欲求の関係と快辛の極限の個別性
2-2 個別単位次元
2-3 認識量と快辛量と感覚強度
2-4 認識量
2-5 感覚と感覚の関係
2-6 感覚は発生しない
2-7 念の為、補足
 

1-1 存在
存在、それは即ち感覚である。全ての感覚は存在であるし、

全ての存在は感覚である。

存在している事とは感じている事である。

古代ギリシャの哲学者と同じトートロジーを

言うならば「在るものは在り、無いものは無い。」

1-2 因果律
1-2-1 機能と非存在性

存在と存在の関係が変化するのは因果による為で、

存在の関係の変化それ自体が因果である。(例外あり)

因果は、存在と存在の関係から見出せるが、

その為、因果は存在ではなく、

存在と存在の関係性的なものに過ぎない。

それは、因果を存在と仮定して

因果以外のあらゆる存在がない時、

因果が存在しえない事からわかる。

存在と存在の関係性的、非実体的存在、

この点で因果は存在とは区別される。

1-2-2 不完全性定理
数学が数学を使って真である事を証明するのが

不可能な様に、

情報が内部で完結している構造物が

その内部の情報で自らの真偽を証明する事は

不可能である。

「私は猫です」という言葉に矛盾はないだろうが、この文章を、この論理の関係をいくら眺めったて

真偽などわからない。

今回、言いたい事をトートロジーを使って言うと、存在が存在する事に、存在による理由は存在しないという事だ。

意識のハードプロブレムという

人の脳に何故、感覚(存在)が発生するのかという

問題があるが、

先の理由を探しているに過ぎなくナンセンスだ。

Aの定義や理由にAを含める様なものである。

二回言うがこの証明不可能性や未知性を嘆くのは

ナンセンスだろう。

証明の定義に無限を入れて矛盾した概念にするようなものだ。

公理の上でしか証明できないし、

公理のない証明は味のない美味の様に

意味を持たない。

1-3 物理法則
1-3-1 物理法則の分解
存在は物理法則を公理として、原因として因果している様に思える。

そして、物理法則はその点で因果と同じ様に、

存在と区別される。

では全ての物理法則は公理で、

物理法則に理由はないのだろうか?

物理法則は因果律に含まれないのか?

全てが公理(理由のない前提)ではないだろう。

遠心力や、重力が距離のマイナス二乗分の1で減衰する事には理由がある。

では全てを統一した物理法則を分解していったら、何処かに公理の物理法則があるのだろうか?

そもそも、それは物理法則なのだろうか、

重力の減衰の式は数学の幾何学から導ける、

幾何学は公理からなる。

だが、素粒子などの存在理由が、

幾何学から導ける訳でもなく、

やはり物理法則は根底として存在し、

物理法則は因果律の始まり、

公理(理由のない前提)である。

1-3-2 量子力学
量子力学が公理ならば、

この世界の公理は動的で確率的であるという事

である。

それが真の意味で確率なのかが

この世界が決定論であるかを決める。

ただ、確率でもない限り説明できなそうな程にこの世界は無秩序だ。

対称性がない、

あるところにそれなりに大きい銀河があって、

あるところにそれなりに小さい銀河があって、

生物がいて、文化があって、

単純で少ない物理法則ではこんな複雑な宇宙には

ならない筈だ。

無秩序に無数の物理法則があるか、

確率的な物理法則がないとこの世界は説明できない
だろう。

そして、今現在の物理学は後者に行きつきそうである。

4つの力が、全ての物理現象が一つの数式に

収まりそうである。

故に確率的で少ない

物理法則がこの世界の公理に見える、

がこれは1800年の終わり、
古典力学で全てを説明できるかと思っていたら、

そうでなくて、より詳細の世界で、

未開拓で広い物理学の領域があった様に、

断言はできない。

1-4 実在
1-4-1 実在とは
私が何かしら感じ、時を置いて再び感じた時、その何かしらは確固として
存在しするし因果も感じさせる。

私が感じていない時、

それが存在していない時、

それは何であるのだろうか?

私は時を置いて感じた物の変化を存在の因果として想像するが、そうではない。

私が感じていない時、

それはカントの物自体であり、
それが因果したのだ。

だけれども、私は存在でない何かが因果する事は

想像できない。

いや、感じれない、当たり前だ、

私含め全てが存在(感覚)なのだから。

私はその物自体を存在に加工している。 

そして、物自体とは因果律や物理法則(世界公理)

と同じで、存在から在る事を思考(演繹と帰納)

でわかり、実体を持たないものであり、

それらを以後、実在と呼称する。

1-4-2 実在と因果律の公理
存在が因果しても存在は生まれない。

因果は存在自体を因果しえないが、
因果自体も因果しえない。

我々にとって因果律とは

存在と存在の関係の変化で、

いくら遡っても、存在自体の理由は

「存在には」見つからないのだ。

さて、実在とは因果律とその公理の物理法則、

そして、物自体であるが、

この物自体の想定は、

存在自体の因果の想定を意味する。

何故ならば、

物自体という実在から存在に変化する事は、

存在と存在の関係の因果ではなく、

存在自体の因果であるからだ。

そして、存在自体の因果に、

存在はないのだから、

存在自体の因果は、

存在でない実在の因果である事となる。

また、存在自体の因果である実在の因果、

つまり、存在自体の変化は、

実在を根底としているが、

それは存在が実在に変化する事や、

その逆が含まれ、

それは生成と消滅であり、

ハードプロブレムはそこに含まれる。


他にも存在では因果しえない

因果律や物理法則の因果も考えられる。

この多くの想定は

つまるところ物自体という実在想定を前提

とした想定である。

では、物自体はあるのだろうか?

また、因果律や公理は、実在という形で、我々
がわからない形で在るのだろうか?

我々が感じれない実体を、

存在を持っているのだろうか?

それは後述する。

1-5 脳と存在界
1-5-1 私の世界と私の脳の関係
・実在界の脳は実在界の一部の鏡像である。
存在界と鏡像の実在脳は、存在界が世界の一部の様に感じる様に、
実在の一部と鏡像関係にある。
・存在界の脳は存在界と実在界の脳との鏡像である。
物自体としての脳とも、この感覚の世界とも鏡像関係であるという事だ。

ここで面白いのは、鏡像関係を全体と部分に分けた時、存在界の一部である
存在界の脳が、存在界を含んでいるという点だ。存在界が変化すると存在界
の脳は変化し、存在界の脳が変化すると存在界が変化する、鏡像関係とは鏡
と同じく写す側と写される側が明確なのだ。また「AーBーC」で「ー」を
鏡像関係を表す演算子とも記号ともするとAーCは鏡像関係となる。
実在界(一部)ー実在脳ー存在界ー存在脳という訳だ。そして、
(直接的に)実在脳ー存在脳でもある。存在脳の変化は実在脳の変化となり
存在界を変えるという事と存在脳と存在界は鏡像関係にあるから存在脳の
変化は存在界の変化であるというのも等しく真である。また、存在界と
存在脳の全体と部分の無限的な構造は写し鏡みたいなものだろう。存在界の
一部の存在脳が存在界を生んでいるは無限の写し鏡のようだが、これは
存在脳が存在界だけでなく実在脳とも鏡像関係にある為である。そして、
何故、脳が存在界を発生させているかは、その理由の本質は実在である。
この問いは存在自体の存在理由と同じではないが関連している。

1-5-2 他者の世界と他者の脳の関係
私と他者は類似している。よって類推すると彼等は感じている筈だ。

個々に異次元的に存在界を持っている筈だ。

故にそれら存在界は同一ではない。

せいぜい、同じ類であっても同一ではない。

では我々は何で繋がっているのか?

それは実在で、である。

個々で別々に、

関連する実在の体の、

一部分を元に存在が生じているのである。

そして、私の存在界と他者の存在界が違う訳だが、私の存在界における他者の脳の変化は他者からしたら何であるか?

実在だろう。

私が他の脳をいじる事で

その他者の存在界で存在が発生したり消滅したりと公理的な様相を見せるからである。

これは水槽の脳という話と繋がる事で、

ただ、これは疑似的な実在、

実在の一種でしかない。

何故なら、存在の実存的理由を、

同じ存在界の存在ではないにしろ、

存在にしたのだから。

例えるならば、

水槽の脳で存在の理由を決定しても、

その脳の者の1つ前の因果はわかっても、

今度は水槽の脳がある存在界の
存在理由がわからなくなる、

すると人は更に上の世界を妄想し無限の世界に
逃げるしか思考の道はなくなり、

結局のところ、本質的な理由がそれでない事が

わかる。

また脳は私のであれ他者のであれ、

いくら観察、分析し、

脳の全ての因果を完全に把握しようと感覚。

何処にも発生していない。

存在が因果しても存在は発生しないのと同じだ。

同じ存在界で存在が発生するのも
別の存在界として存在が発生するのも

存在の因果ではない。

永遠に弾き合う
無数の玉の因果からどうして感覚が、

この赤いとかの質感、クオリアが生まれようか。

1-5-3 感覚の公理性、不確実性
感覚に存在としての理由はない。

感覚には真偽というのがない。

では、
「腕を動かしたらリンゴが当たったというのは、  

リンゴが当たった触覚に
腕を動かしたという理由がある。」

、と反論を用意する。

これは運動感覚Aが
生じると視覚Bが生じ、

触覚Cが生じたという事で、

先の反論は単に生涯を
通じて感覚と感覚の関係から帰納法で理由

を想像してるに過ぎない。

つまり世界で本質的ではない。

要は単に今まで見たカラスは全部、

黒かったからカラスであるならば黒いという事と

等しい。

次に「脳を操作して感じた感覚が偽物でいつも

感じているのが本物」という反論を用意する。

これは神経を特別視しているに過ぎない。
神経が脳に影響を与えていようが、

人工的な機械が脳に影響を与えていよう
が何の違いがある?

本質的な違いはないではないか、

ただ感じる、それだけなのだ。

我々にとって、この感覚が、世界が全てだろう?

存在界で我々は公理としての帰納法的結果を

演繹しているに過ぎない。

1-5-4 肉体
私はいかにして脳と因果する肉体を見つけるのか。存在界の因果が存在脳に直結するのは

存在界の因果が全て存在脳の因果である為である。

さて、最初の疑問に答えると、

視覚Aと視覚Bが視覚Cして触覚Dを生む

(左腕と右腕が接触して触覚を生む)

これにより腕が肉体であるという事がわかる。
この二次的感覚は実在脳が齎している。

二次的感覚が肉体を示す。

そして三次以上の高次感覚を

人は心と呼ぶ。

また肉体の発見は、この感覚系統内で

、この感覚と他の感覚が因果した時、

「この感覚は、この感覚系統外の感覚を発生する」、のこの感覚が肉体である。

(感覚系統と感覚系統内の感覚とは、

視覚と視覚としてのリンゴみたいな関係である。)

1-5-5 脳
1-5-5-1 内在と外在
存在の因果から生じる存在を

二次的な存在とした時、

三次、四次などの高次は二次存在を生じさせる

一次存在と因果しない。

それは俗に心と言われるものだ。

存在界の存在ではある為、

存在脳の因果としては見れる。

その高次存在は肉体(二次存在)を通して、

肉体外の一次存在と因果する。

厳密に言えば高次存在の変化で、

存在脳が変化している時点で、

既に一次存在とも因果してるのだが、

そこは例外的に考える。


ここで三次以上の存在を内在、

一次存在と二次存在を外在と名称する。

そして、内在は外在を本質としていて、

内在は外在を扱い、外在で動作する為、

外在がなければ内在は実体のないシステムとなり、

仕組みがあるだけで、動いていない仕組み、

それは存在がない世界にある因果や物理法則の様でない様なものであろう。

1-5-5-2 脳の特異な理由
私は類推で人間を、動物を、

存在を有する存在だとしているが、

結局、私達は脳があるか、

脳がどうかで存在を有しているか、

心を有しているか類推しているが。

脳がない何かしらが存在を有しているかは

わからない。

ただ、脳には特徴がある。

この外在を表現する構造である事である。


そして、他者と私を類型とする事で

外在が実在を一部にしろ写している事がわかる。

他者が語る事が、私の感じていない(実在)、

他者の感じている事(他者の外在)の様に、

外在は実在を主としている。

1-5-5-4 現象報告のパラドクス
この問題はクオリア問題を語れる事は、

クオリアが脳に影響を与えている事に

なってしまうというパラドクスである。

要は、物理的な影響を持たない、

他者の個々の存在界が、

全ての存在界、実在界に影響を与えているという、

結論に至るパラドクスだ。


これは言語学的に考えればいい話だ。

あらゆる疑問形でない文は疑問形にできる。

「存在する」→「何故、存在するのか?」

これだけだろう。

では、何故、我々は「存在する」と考えれるのか、ならばその逆の「完全な無」を想定できるのか?

言語を構造のみ見ると、

全ての言葉において存在を不文の前提と何故しないのだろうか?
実際にこの世界は存在が公理であるのに。

だが我々は錯覚するのだ。

飛散し塵になり空気と混じった物体を消えたと

錯覚する様に。

そして、消滅の概念を取得したなら、

消滅していないという否定形の言葉も取得する。

そして、消滅の逆の発生という概念も取得する。

そして、発生を疑問形にしたのだ。
ちなみに消滅や発生はミクロな量子力学では

起きているとされている。まさに公理的だ。

また事物の欲求はないをあるとすると

疑似的に解釈されている。

「ない肉を手に入れる」は

本来、何かしらの獣の肉を切除して所有する
という長い文章だった、それを疑似的に有無を導入する事で簡略化されたのだ。

2 内在(精神)本質論
2-1 快辛時間次元
したい事しかできない。

これに反論を人は思うのだろう。

例えば、銃で脅され仕方なく何か嫌な事を

するだとか。

でも、それは単に銃による死を避けたい欲求が、

その嫌な事をしたくない欲求に勝っただけの話で、こっちの方がしたかったというだけだろう。

全人類が宗教徒であるが為に仕方なく言うが

善も欲である、助けたいは、したいを本質としているだろう?言語学的に。

言語は感覚の写像だ。

こういう反論もあるだろう、

あえて自分を殴ってみました的なの、

それは、その「あえて」が第二の欲だという話だ。

このしたい事しかできないは法則的で決定論的で淡々と進むので時間という言葉を入れた。
快辛と書いてある理由は次で述べる。

2-1-1 快辛と欲求の関係と快辛の極限の個別性
欲求とは何か、それは快感の上限に至ろうとする働きである。

快感の上限から離れれば離れる程に、

その働きは強くなる。

この強さとは優先順位である。

強い欲求とは比較的、不快であるし、弱い欲求とは比較的、快感である。

何故、比較的か?それは上限(下限も)個々の感覚によって違うからである。

例えば、痛覚は下限は大きいが、

上限は小さい。

痛みはとても辛いが、

痛みの欲求を満たしても快感ではないだろう。

例えば、性欲は下限は低いが上限が大きい。

苦痛の強い欲求と性欲の強い欲求は、

快不快においで異なり、

欲求、即ち不快ではない。

また、この快辛時間次元からわかるのは

功利主義は最大限に大きい枠組みであり、
自由至上主義や美徳などあらゆる政治の主義を

包括する。

そして全ての感覚は快辛を持つし欲求である。

快感の上限と、現在の感覚との距離が、

欲求の強さであり、

欲求とは優先順位である。

2-2 個別単位次元
我々が腹が空いたから女を抱く事がないように、

欲求は個別的で、精神とは複数の欲求からなる。 

ただ、無関係ではない、

優先順位だけの関係ではない
、それは後程、述べる。これは二つ目の次元である。

2-3 認識量と快辛量と感覚強度
ぼーっと感じるのと、

集中して感じるのとを結ぶ次元、認識量がある。
そして、快辛量がある。

この二つの積が感覚強度である。この感覚強度が
快辛時間次元である。

同じ痛みでも、ぼーっとしていれば、

認識量が低ければ、痛くないようなものだし、

集中して感じようとすればする程、

痛く感じる。

この例は快辛と認識量を逆にしても成り立つ。

2-4 認識量
認識量は有限である。

ある感覚の認識量を上げれば、

他の感覚の認識量が減少し、

全体的な量は変化しない。

ぼーっとした状態とは、

認識量が拡散した状態である。

直観というものがある。

あれは極度に速い思考
である、だが速い為、認識量が低い。

また何かを想像する時、パッと想像する
だろう?

あれも低い認識量が故に速く複雑な無意識の為せる事である。

パッと想像するだけなら存在しない絵をパッと思い浮かべれる、意識的にこれをするのは難しい、

顔の部位の大きさのバランスや距離、色、表情、

髪型、明度、それら複雑な作業を無意識はぱっと

やる。

ただし、意識の望む通りにできるとは限らないし、ぼーっと見れば自然に見えても、

よく見たらおかしい、それが人間の想像である。

性質論で書くのであまり言わないが
記憶や夢は単に認識量が低いだけだ。

複雑性を厳密に定義すれば、

速度と複雑性の積をより分析できるだろう。

複雑性は情報処理における作業量と
言えるだろうし、

速度とその積は時間に対する作業量、密度、効率と
言えるだろう。

そして、今、述べた事を一つの式にまとめる。
任意の正の整数/(速度×複雑性)=認識量

2-5 感覚と感覚の関係
2-5-1 欲と欲
ある欲求と欲求が同時に全てを満たせない時、

強い欲求の働きが高割合を
占めるが、

大抵、人は選択という理性の欲でどっちかだけに

極まる。
(それをしないと混ざってしまう。二つの言葉のどちらを言おうか迷って
混ざった言葉を言ってしまうみたいなミスになる。それは理性が働けない程に時間がなく、

微妙な判断である時に起こる。) 

感覚と感覚は繋がっている事がある。

ある感覚の快辛の変化が、

ある感覚の快辛の変化を引き起こす、

これは先天的な構造である事もあるが、

単にある感覚とある感覚が変化した時間が近いと、
繋がりを持つ。

コカインを吸ったら気持ちよくなった、

すると、コカインを吸いたくなった。

みたいな事だ。

元々、欲を感じていない時に発生した、

新たな快感とは、

元は認識量の低い欲求である。
それが高まったのだ。

つまりあらゆる快辛は既に低い認識量として

存在していて、全ての感覚は同時に感じていて、

あるのは認識量の変化なのだ。

大麻を吸って快感を感じるとか含め

あらゆる感覚は既にあるのだ。

快辛の学習とは認識量の変化である。

そして、単純な欲求、動作と動作を結ぶのは

理性の情報活用であり、

それは論理を進める欲求などからなる。

端的な欲求、

反射的な行動を外界に合わせてただただ行うの
ではただの動物であるが、

人間はそれを主体とせず道具とする理性がある。

2-5-2 提携
感覚は感覚と乗法で繋がっている。加法ではない。ある感覚の集合体の一つ
一つの感覚を因子と呼び、この因子の全ての積が集合体の快辛となる訳だ。
乗法である事を示す例として、

いくら味覚というのは五つの味覚からなると

言っても、5つの味覚のバランスが最高で美味な

料理も一つの味覚が狂えば
全部、狂うだろう、ケーキも塩ををぶちまけるだけで酷い味になる。

まさに乗法だ。ただ、個々の因子の重要度は等しくない。重要度は快辛が1との
平均化で現れる。因子Aが+2の時、全体に2が掛けられても、因子Bが
+2の時、全体に+1.5掛けられる時もあるのだ。また、因子には正の数
が負の数かは別として0以上1未満の因子がある。それは、感覚自体を減少
させるという事だ。

2-6 感覚は発生しない
生まれた時を除いて、感覚は発生しない。単に変化するだけだ。例えば、
何も食べてない時から食べた時の変化は、食欲の快辛の次元で0から0
でない数に変化しただけである。


いいなと思ったら応援しよう!