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瞑想が苦手です

マインドフルネス本が本屋さんに行くとたくさん並んでいます。
今は、流行というより当たり前な内観方法(と表現していいのか不勉強ですが)として定着しているようですね。

しかし、私は瞑想が苦手です。
目を閉じた途端、普段意識していない呼吸や脈拍が不安定になってきたような気がしてきて、息は「はー、はー」と苦しくなり、心臓はドキドキしてきて、全く瞑想に入れません。
むしろ、具合が悪くなる…

はっきりとした苦手意識が芽生えたのは、学生の時。
何のタイミングだったか忘れたけれど、
【人が深淵に向き合ったとき、深淵もまた人を見ている】
といったような話を聞いて、ゾワッと恐怖に襲われました。
「安易に心の淵に立ってはいけない」、そう思ったことがきっかけです。
その後、セミナーとかに参加してチェックインのためとか、チェックアウトのためとかで静かに心を整えるような場面で、息苦しくなるようになったんですよね。
ですから、瞑想を取り入れているセミナーに出会ったら、セミナーを組み立てている講師の方には申し訳ないのですが、その時間は俯きがちに自分が楽しくなるようなことを考えながらやり過ごしています。
ただ、その瞑想タイムに何が起こったかシェアするようなときは本当に困りますけれど。

そんな自分が嫌、とかではなくて、瞑想は目を閉じていなくてもできるよね。
私にとっては、農作業が瞑想だな、と感じています。
無心に体を動かす。イネの状態や環境の変化に目を向ける。
それが瞑想状態なのだと感じています。
一つのことに集中している状態。

マインドフルネスという言葉を聞いて、その内容を少し聞き齧って感じたことがあります。
それは、仏教学の【唯識思想】にそっくりだな、ということ。
唯識思想の研究は、流行期が時々やってくるのですが、私が学生だった時も何回目かの流行期だったみたいです。
臨床心理学に興味があったけれど、全く受験で歯が立たず希望進路に挫折。
そんな時に出会した「唯識思想」。
知れば知るほど面白く感じて、教授と取り組んだ論文制作では興奮しすぎて不眠症になったくらい。
唯識は、ただ識のみ、という意味。
識は「心」のこと。
この世界は自分の心の投影だよ、ということを解く思想です。
だいたい1600年前にインドで確立した思想で、
唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)という大乗仏教の学派の一つです。
瑜伽はサンスクリット語で「ヨーガ」。
猫のポーズとか太陽礼拝のポーズなどでお馴染みの「ヨガ」のことですね。

この文章、学生時代の記憶を呼び覚まして書いているので、間違っているところがあるかも知れませんが、もっと唯識のことが知りたい、というリクエストがあったら、私の学んだ『解深密教』(げじんみっきょう)について書いてみますね。

唯識思想は日本にも法相宗(ほっそうしゅう)という宗派として渡来しています。
奈良の興福寺や薬師寺、法隆寺が法相宗のお寺です。

瞑想が苦手、というとこから唯識思想の話になっちゃいましたが、
瞑想が苦手でも心と向き合う方法はあるのではないかな、というお話でした。

では、また!

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