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岩井俊二作品くらいの彩りとはなにか〜sumikaの『ソーダ』から考える〜
大学生のある日sumikaの『ソーダ』という曲を聴いていた時、ふと「2人と1匹のストーリーには岩井俊二作品のくらいの彩りはなく」という歌詞に引っ掛かった。岩井俊二という名前は聞いたことがあったが、岩井俊二作品を読んだことが無かった私は、岩井俊二作品くらいの彩りと言われてもピンと来なかった。すぐに大学の本屋さんで、岩井俊二さんの作品を探し、『ラヴレター』という作品を買った。読み終わって表題の疑問について考えてみたが、まるで答えには辿り着かなかった。そして、今年岩井俊二作品の『キリエのうた』が映画化されるということで、原作を先に読んだ。そろそろこのテーマについて自分なりの答えを出してみたいと思ったので、書いてみることにする。最新作『キリエのうた』についても少々触れるが、ネタバレまでは含まないので、ぜひ読んでみてほしい。
sumika『ソーダ』について
sumikaの『ソーダ』を聴いたことがない、聴いたけどそんなところに引っ掛かったことのないという人のためにリンクを貼っておくので、今一度聴いてから戻ってきてほしい。
この文章は『ソーダ』の主題とはなにか、作詞者は何を伝えたかったのかを考えるのがゴールではない。それに関してはすでに過去のインタビューで明かされていることが全てなので、以下その時の記事を引用する。
“優しさの履き違え”
ー1曲目『ソーダ』は爽快感がある、切なくもポップな楽曲ですが、この楽曲はどういった心境から制作されたのでしょうか。
⬛︎片岡:この曲は自分の体験にも基づいて書いているのですが、ある人との煮え切らなかった関係を清算させた時に、もっとこうすれば良かったのにというモヤモヤした感情を、ソーダや炭酸に描写して書いています。
この曲は自分自身の中に全く曇りが無く、ほとんど一晩で書き上げました。
⬛︎荒井:レコーディングしている時に、演奏しながらこっちも泣きそうになっちゃいました。
ー切ないストーリーがある楽曲ですが、ソーダや炭酸の描写により爽快感を感じる綺麗なイメージの楽曲に感じました。
⬛︎片岡:当時の自分ができなかった事が、この楽曲の中では成し遂げられています。どうせならちゃんと言い合いたかったですし、傷つけ合いたかったという後悔も、炭酸の泡のように止まる事なく、きちんと溢れさせる事ができました。
ここに書かれているように『ソーダ』の主題は"優しさの履き違え"である。まずはそこを履き違えないでほしい。「彼女に振られて悲しい!泣いちゃいそーだ!」っていうメンヘラソングだと思っている人結構いるんじゃないかな。
この曲の中で主人公たちのストーリーついて説明されている箇所が3つある。1つ目が「2人と1匹のストーリーには岩井俊二作品くらいの彩りはなく」、2つ目が「2人と1匹のストーリーにはとりたててトピックスもなく」そして3つ目が、「僕らのストーリー 色もなければ匂いもしなかったストーリー」。ここでいう色や匂いとは、喧嘩や揉め事などのこと。優しさのために嫌なことは言わないのではなく、優しさのために正しく傷つけあうべきだったということを無色透明や色や匂いという言葉で表している。
sumika好きな人ならこの『ソーダ』と『溶けた体温、蕩けた魔法』の主題が同じだということに気づいているだろうか。この『ソーダ』の主人公が求めていたのは、まさに「僕ら寄り添って傷をつけあって好きの分嫌いも等しく言い合える」関係だと思う。
ここまで読めば一旦、「岩井俊二作品くらいの彩り」の輪郭が分かったと思う。1番端的な言葉で表すとするなら、喜怒哀楽。2人と1匹のストーリーに欠けていたものは、間違った優しさのために隠してしまった”自分らしい素直な感情”だと考える。
岩井俊二作品について
さて、『ソーダ』の主題を改めて確認したところで、本題の「岩井俊二作品くらいの彩り」について考えていきたいと思う。ジブリ作品でも細田守作品でも新開誠作品でもなく、岩井俊二作品にある彩りとはなんなのか。岩井俊二作品にしかない彩りとはなにか。これは主題とは違い、読み手それぞれに受け取り方があって、誰かによって最適解が出されているわけではないので、読んだ人それぞれに考えがあっていいと思う。
岩井俊二さんといえば、『Love Letter』や『ラストレター』『打ち上げ花火、下からみるか?横から見るか?』などの代表作がある映画監督。数々の映画を手がけた監督の、次の映画化作品が『キリエのうた』である。
私は、小説家の書く小説と、映画を撮る人が書く小説は書かれ方が全然違うと感じる。文学部だったので、それなりにたくさんの人の小説を読んできたが、映画を撮っている人が書く小説は、小説だけを書く小説家と違い、映像を撮る前提で書かれているように思える。川村元気さんとかもこの類かな。言葉で説明するのはちょっと難しいけど、より情景描写が細かく、文章で画角を構築している感じが強調される。そして、使っている言葉が柔らかい。小説家の使う言葉は時々かしこまりすぎて中々咀嚼できない時があるけど、岩井俊二さんの使う言葉は滑らかでスッと入ってくる感じがした。
『キリエのうた』の主人公は、声を出す事ができない。正確にいうと、歌は歌えるのに、話すことができない。過去の衝撃的な体験が原因なのだが、そこは予告でも明かされていないので、ここでは伏せておく。“心に大きな傷を負った主人公”これは岩井俊二作品の特徴のひとつかもしれない。他の岩井俊二作品でも心に傷を負った人が主人公になっている作品が多数ある。物語を通してその傷が綺麗さっぱりなくなるといったハッピーエンドではないが、その悲しみから一筋の光が見えて、悲しみだけの世界ではないと少しだけ自分を肯定できるようになるのが岩井俊二作品だ。もちろん一括りにはできないが。その悲しい出来事は、事の大小はあれど、読者が経験したことのないような突拍子のない出来事ではない。生きていれば誰もが1度は経験したことのある悲しみが繊細に描かれているから、読者は物語に入り込む事ができる。
岩井俊二作品の彩りについて
岩井俊二作品を色で表すとするなら、決して明るく鮮やかな色ではないと思う。1色に絞るのは到底難しい。全ての色を吸収した毒々しい底なし沼みたいな色の時もあれば、今にも消えて透明になってしまいそうな淡い色の時もある。作品の最初と最後でもまた違った感じ方をした。ひとつ共通点を挙げてまとめるとしたら、“自然な彩り”と括るのが妥当だろうか。人間が作り出した自然界には存在しない色ではなく、ごくありふれた生活環境の中にあるよく目にする色。フィクションやファンタジーのような非日常的な彩りではなく、限りなくノンフィクションに近く、日常にあって誰もが見たことのある彩り。これが岩井俊二作品にある彩りなんじゃないかと思った。だからこそ『ソーダ』の歌詞に入れられたのではないかと思う。「ジブリ作品くらいの彩り」って言われても、ジブリ作品にイメージされるような艶やかな世界で暮らしたことないから共感の仕様がないもんね。
『ソーダ』の主題についての中で、2人と1匹のストーリーに欠けていたのは喜怒哀楽だと述べたが、喜怒哀楽全ての感情がある日常=岩井俊二作品くらいの彩りと言って相違はないと私は考えた。
ここまで読んで、よく曲を聴き込んでいた人なら、こんなこと言われる前から分かってたというような結論だし、「岩井俊二作品くらいの彩り」にここまで深く考える奴私以外いないかもしれないが、もしほかに感じることがある人がいたら教えて欲しい。この議題について考えながら岩井俊二作品『キリエのうた』を観たらより面白くなるんじゃないかと思っている。