歪な透明 解離型ASDの記録 色がないとはどういうことか
暗闇に目を覚ますと、「死ね」と声が聞こえた。
その声は変容し、繰り返し大きくなり、洪水のように私の頭を支配した。「お前には生きている価値がない」、「死んだ方が良い」、「早く死ね」と私の死を急かすのだ。
しかしこの声は現実のものではないことを知っていた。これは私の頭の中から聞こえる幻聴だった。私を悩ませる苦しみは幻聴として根付き、私を貶めるのだった。
【はじめに】
noteを初めて利用するにあたって、個人で書きためていた文章を公開するか否か迷っていた。以前ブログで解離や発達障害のことについて投稿していたのだが、文章のスタンスが全く違い、そちらに投稿すると確実に浮いてしまうのである。
しかしせっかくエッセイを書いたので、ネットに投稿して忘れないよう記録として残すのも良かろうと思い、急に思い立って投稿することにした。
ただnote向けに一切書いていなかったことと、硬い文を好む上機能初心者なので、気の利いた見せ方は難しそうである。さらに少々長くなってしまったため、noteでもこの文体が浮いていたら申し訳ない。
これは大学四年生の秋にADHD/軽度ASDの診断を受け、社会人で解離性障害の診断を受けた、中学生から二十五歳社会人までの人生記録をまとめたものである。解離に興味がある人や、当事者たちの目にたまたま入ったならとても嬉しく思う。
まず自身の体験を話し、その後にタイトルの解離と色の関係についてを言及し、意見を述べる。大したことは書いてはいないが、ASDと色の関係のみ興味がある人は文を飛ばしてもらって構わない。
【解離性障害とは】
統合失調症者は外から幻聴が聞こえ、解離性障害者は中から幻聴が聞こえるなどと小耳に挟んだが、果たして本当だろうか。私は統合失調症ではなく、解離性障害の診断を受けた患者であるが、実際頭の中から時々幻聴が聞こえる症状に悩まされている。ただし筆者は当事者というだけで専門家ではないため、専門的なことは臨床歴を持つ精神科医などに任せるべきであろう。
それに関してはひとまず置いておき、これを読んでいる人は、解離性障害という名の病気をご存知だろうか。解離性障害とは神経症に含まれる精神疾患の一つである。
症状は大きく言うと、自己の統合性が失われ、無意識の葛藤から逃れるために記憶が飛んだり、体の一部が動かなくなったり、気付くと知らない場所に立っていたり、自分の体が自分のものでないと感じたり、人格を作り上げてしまうなどの症状が出ることだそうだ。ネットでは大抵健忘、遁走(とんそう)、離人、同一性障害と分けているようだが、筆者の主治医は分けていない。
また、「解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理(2007.柴山)」によると、他にも幻臭や幻聴、幻覚、体感異常(セネストパチー)、気配過敏等が見られるようである。
この中で一番有名なのは「人格を作り上げてしまう」あたりだろうか。
筆者は解離性障害ではあるが、エンタメやマスメディアに挙げられがちな解離性同一性障害、わかりやすく言うと多重人格者ではない。どちらかと言うと、現実感を失ったり、無意識に身体が解離してしまうタイプである。ただ、解離性同一性障害はメディア等に挙げられるわりに、嘘つきであるとか演技であるとか揶揄されるのを見かけるので心が痛くなる。
話を戻すが、筆者は長年の間で、幻臭、体感異常、気配過敏等に悩まされてきたため、この本に目を通したときに「これだ」と目から鱗が落ちたような気分になった。
【解離性障害の体験談】
ある程度説明したところで、ここからは当事者目線で筆者に起きた解離症状について触れてみようと思う。自身が診断を受けたのは去年ではある。ただ、解離性障害になったのは中学生や高校生あたりからだったのではないかと感じることがあった。
その理由として挙げられるのは三つある。一つは、中学時代から幻臭を感じていたこと、二つめは昔から黒い影を感じたり気配過敏があったこと、三つ目は高校時代に突然現実感を失い、メンタルクリニックでカウンセリングを受けていた時期があったことだ。
先程の書籍によれば、解離性障害者は気配過敏があったり、ないはずの匂いを感じるのだという。気配過敏はまだ良いとして、幻臭と現実感喪失に関しては強く印象に残っているエピソードが三つある。
まず幻臭について二つ挙げておこう。一つは死の幻臭、二つ目は懐かしい幻臭である。そして最後に離人について語ろうと思う。
【ふと現れる幻臭たち】
死の匂い
幻臭を初めてはっきりと感じたのは、たしか中学二年生の春頃であった。日差しの穏やかな、涼しい教室での出来事である。
筆者はぼんやりとした性格だったため、よく教室の窓をつい見てしまうような生徒だったのだが、ふとうっすらと開いた窓の隙間に目を惹かれると、突然意識を引きずり込まれた。死の匂いが風と共に流れ込んできたのである。
隙間から入ってきた優しい風は、死を誘ってくるような強迫的な匂いを運び、「窓から飛び降りろ」と命令したのだ。その匂いに腕を掴まれた瞬間、私は蛇に睨まれた蛙のようになりながら、「早く飛び降りて死ななければ!」と強く洗脳された気持ちになった。その後洗脳が解けたようにふっと意識が戻ることができ、幸い自殺行為には至らなかったが、あの匂いは死を招くそれそのものであることは違いなかった。
ただこの死の匂いというのは、本当に引きずり込まれるように、命令をされたように「飛び降りなければ!」と思わされてしまう。この狂気的な感覚は解離ゆえだったのかもしれないが、好きでこうなったわけでもなく、突然私に降りかかった恐怖なのである。その経験は十年以上経った今でも忘れられない死や春に対する感性の元となった。
懐かしい匂い
次は懐かしい幻臭についてだ。高校の冬は、死とは真逆の優しく懐かしい匂いを知ることになる。
これは冬が深まる実家の窓辺で窓を開けていた時だった。何気なくフローリングでのんびりと座っていると、まるで前世まで遡るような懐かしい匂いが、突然私の前を掠めたのである。その匂いを嗅ぐと、なぜか頭の上から胸まで体がじんわりと暖まり、遥か遠い記憶を見つけ出したような気持ちにさせられた。だが、その匂いは懐かしさを残したまま、本当に一瞬にして過ぎ去ってしまうのだ。
ただ、その匂いに実態がないことが特徴である。たいてい懐かしいというものは、昔嗅いだ近所のカレーの匂いだとか、昔彼氏彼女が使っていたシャンプーの匂いだとか、そんな具体例が出てくるものであるが、そういう物理的記憶ではない。もっと深い、命が生まれる前のような包まれる原始的な懐かしさが唐突にふんわりと現れ、そして一瞬にして過ぎ去ってしまうのだ。
たしかその匂いを嗅ぐことができたのは二度ほどだけであったが、走馬灯のような懐かしい、しかしどこにもない匂いをまだ探し求めている。たしか高校最後の冬を最期に二度と現れなくなり、現在はないはずのなんらかの匂いを感じる程度になってしまった。ここでは幻臭とは言っているが、あれらは本当の匂いだと信じてしまっている自分がいるのだ。
正直、これらの体験が完全に解離と当てはまるのかはわからないのだが、二つ目の幻臭体験はインターネットの掲示板で同じことを書いている人たちを発見し、似た感覚を感じている人がいたことがとても嬉しかった。
【理不尽に襲いかかった離人症】
そして最後に、現実感喪失について語ろう。それを「離人症」と呼ぶと知ったのは高校三年生頃だった記憶がある。これは以前使っていたはてなブログで投稿していた内容のため、どこかで目を通している人もいるかもしれない。離人が起きたのは、全く前触れもない、本当に突然の出来事であった。
それは確か、高校三年生に上がる前の話だ。今でも付き合いのある友人と家族絡みで食事に行った時である。なんとなしに友人や母と一緒に私が座敷に座っていると、急に意識がぐらっと歪み始め、頭をぶつけたような重い感覚がのしかかったのだ。
また、のしかかりと共に視界がぐにゃぐにゃと歪んだかと思うと、世界がスローモーションのように気持ち悪いほどゆっくりに見えたのである。
私は混乱しながらも、あえて黙っていた。このおかしさを見せれば狂人に見られるに違いなかったからだ。そのため黙ってそこにいるしかなかったが、明らかな違和感は拭えなかった。
感覚が過敏になって物が浮き出ているように見えたり、対面で話している人のまばたきが異常に遅く感じたり、ゆっくりとはっきり動く姿が鮮明に見えるのである。そして同時に「この人は誰? どうして瞬きをしているの? 持っている箸が気持ち悪い、動いている自分の手が気持ち悪い、自分は誰? ここはどこ?」と自身の体が自らを離れながら、自分と周りに対する異様な疑問が急に止まなくなったのである。
このスローモーション体験は発症した日以来起きていないが、その日から原因不明の理不尽な私の離人生活が始まった。
当時も離人症の情報が少なく、ネットで調べてもよく分からなかった。対処法は「無視すること」くらいで、私はそれを実践することでしか離人症に対抗するしかなかった。今の主治医に聞くと、それは大正解だったようだ。
その頃の私は思えば体感異常(セネストパチー)も発症しており、おでこが浮いていてとても気持ち悪いという症状を訴えていた。その際病院で脳のCTを撮った記憶があるのだが、問題はないとのことだった。
学校では離人がひどくなると冷たい水を触ったり、鏡を見ることで自身の確認を行っていた。
そうしてとうとうある日の体育の見学中に強い解離に襲われた。向こう側でバスケをする生徒を見ていたのだが、急にベールがかかったのである。その瞬間に我慢できなくなり、体育館裏で泣いて怯えてていた。おそらく友人や先生に保健室に運ばれたのだが、記憶がほぼない。
その後副担任に裏で「感情をコントロールして」と指導を受けたが、心はもう解離していたため言葉はひとつも通らず、実感もなかった。
唯一私を現実に呼び戻したのは、怯えていた私の手を握ってくれた友人のあの温かい手しかなかった。今でも本当に感謝している。以前の私は無意識に「グラウンディング」という五感によって「今ここ」を感じる療法をやっていたことを知ったのは最近である。
とはいえ、私の異常さを見かねた先生らは、私をカウンセリングを紹介した。母親の協力もあり診察を受け、私はそこで初めて離人の可能性があることを知らされたのである。
【治療法が見つからなかった】
だが残念なことに、解離の治療法が見つかることはなかった。何度かカウンセリングは受けたものの、はっきりと解離性障害と診断を受けたわけでもなく、対策も教えてもらえず、自分の様子を見て「あなたの性格的に大丈夫だと思う」と言われただけとなった。おそらく意見をはっきりと言い、敵味方関係なく正しいと思った方につくタイプであると推察されたからであろう。まだ診断は受けていない頃だったが、思えばこの正論に重きをおいた考え方はASD的思考である。
しかし、あれは大変孤独で未知の体験だった。当事者しかわからないとはこのことを言うのだと、この体験からはっきりと告げることができる。しかし、言葉尻のみで例えるならば、周りは知り合いの皮を被った実感のない誰かで、やったことのない、愛着のないゲームのあらすじや設定だけを覚えているような奇妙な感覚だった。
つまり、愛着や実感がないのに、思い出としては全て覚えているのが恐ろしいのである。楽しかったとか、悲しかった、そういう感情が一つもないまま記憶を刷り込まれたような感覚である。
自分の部屋なのに、自分の部屋と認識できない。自分の家族、友人、街とは記憶では理解しているのに、感情が全くついてこない。どこにも居場所がない。
思い出というのは実感があって記憶として成り立つと、嫌でも心で理解したのはこの時だろう。精神科医では有名な名越康文先生がいるが、この方が解離の実感と記憶の結びつきについて言及しているのを動画で拝見し、共感せざるを得なかった。
とはいえ、自身の努力や周りの助けで身を結んだのか、その症状は数ヶ月で鳴りを潜めていった。現在も時々、現実感の喪失が顔を覗かせるが、高校時代ほどの長期間の壮絶な離人は経験していない。
しかし人によっては、何年、数十年とずっとそれと付き合い続けている人もいるらしく、現在は解離へのはっきりとした治療法がないということは伺える。ただ言えるのは、酷い虐待やトラウマがなくても離人が起きる筆者のような当事者もいるということだ。ASDは元より解離しやすいとの話を聞いたことはある。しかし私は未だ、虐待やトラウマで解離してしまう人がいる中、原因不明のまま解離と起こしてしまった自分に罪悪感を抱き、本当は何か理由があったのではないかと悩み続けている。
【現在の治療状況】
大学四年生でやっと発達の診断が出た。そして卒業してから数年、臨時の地方公務員として働きながら去年から解離性障害を薬物療法で治療している。しかし解離自体が良くなっている感覚はあまりない。
だが、それよりもまず、私は「何かをできるようになる、物事を続けていく」ということを主治医から求められている状況にある。
これはすべて自ら始めたことであるが、日記を書く、散歩をする、ストレッチをする、サプリを飲む、絵を描く、小説を書く、本を読む、野鳥観察、植物観察、映画鑑賞などを積極的に取り入れるようになった。
そうして治療前と比べると続けてできることが増え、自分に対して少しは愛情を持てるようになったのである。いわばこれが自己肯定感というものなのか、自己有用感というのか、そういったものか以前より筆者に微かながらも根付いたように思う。
ただ、これらのアプローチに関しては解離の治療としては有効的ではなかった。そのため、半年間は主治医への疑念が払えず、胸の曇りは消えなかった。私はこのままではいけないかと思い、勇気を持ってその旨を相談することにした。
その結果、それは主治医はわかっていて勧めていたことが判明したのである。
先にも述べたように、解離にははっきりした治療法がまだ見つかっていない。薬物療法とは言っても、抑うつを抑える程度のもので、解離の根本的な治療には全く至らないのである。そのため、まず私がやれることを増やし、主治医がその手伝いをすることしかできないとのことだった。
つまり彼は、意図的に解離の治療よりも自己肯定感を育む治療を優先していたということになる。私は解離の治療として診察を受けていたため、不信感と違和感が拭えなかったのだが、治療を受けていて抱いていた胸の曇りはようやく晴れたのだった。
そうすることで、この「やれることを増やし、続ける」というのは、実は自己肯定感を育むためのステップとしてはかなり重要な位置にあることに気づいてきた。
例えば、日記を始めて一年以上経つが、内容はどうあれ続けてこれたという成功体験が心を支えるのである。
実際、完璧主義が所以で何事も続けられなかった私が一年以上書けたなど信じられないことなのだ。コツは適当でも何ヶ月でも空いていいからとりあえず続けることだった。諦め半分でやると、なんとできてしまったのである。その流れで、できなかったストレッチなんかもできてしまった。
しかし、肝心の解離性障害を治すには、第一に周りの環境を整えることが大事だとは初診で言われている。今の職場がそこまできついとは思わないのだが、特性によりストレス耐性が低い私にはどんな場所さえ辛いような気がしてくる。理由もなく私は解離やめまいが突然起き、ただ苦しい日々が続くということがこんなにも辛いのだ。
自己肯定感を上げるのは良いことだが、解離の治療は放棄されていることに変わりないのかもしれない。健忘も離人も顔を出しており、自分が知らない間に何か起きていることもある。いずれそれによって信頼を失う可能性もあるのだ。
私はどうすれば良いのか。きっとただ、自分を信じてやれることをずっと続けるしかないのだろう。
【解離と色 拡散する解離型ASD】
「自分を色にたとえると、どんな色だと思うか」
長くなってしまったが、本題に入ろう。
あなたには自分の色のイメージというのはあるだろうか。例えば、自分の色は青であるとか、赤であるとか、緑であるとか、もしくは灰色であるとか、そんなものである。
私はASD(自閉症スペクトラム障害)を併発した解離者だが、自分の色は何度考えても「ない」、もしくは「透明」としか浮かばないのだ。もし読んでいる人も同じ感覚ならば嬉しく思う。
上の質問だが、この質問は「解離の舞台─症状構造と治療(2017.柴山)」の解離と色という話題の中で取り上げられた質問である。他にも様々なことが書かれているのだが、ASD解離患者に色のイメージについて尋ねた調査結果を引用させてもらう。
なんと面白い結果だろうか。この調査を知っているわけではなかったのに、解離性障害を持ったASD(のちに解離型ASDと統一)は、私と同じように皆同じ色イメージを持っていたのだ。さらに、自分が黒や白、グレーだとは全く浮かぶことはなかった。これは大変興味深い内容である。ちなみに著者は、先ほど紹介した「解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理」と同じ柴山雅俊氏である。
調査によると解離型ASDの八名の患者全てが「色がない」、ないしは「透明」と答えたと言うが、ASDではない解離患者は「グレー、黒、白、もしくは色がない」と答えた。しかし非ASDの彼らの言う「色がない」は喪失のニュアンスがあり、我々解離型ASDからはその喪失のニュアンスはなかったとのことだそうだった。自分に色がつけられずどこか不安を抱いていたところ、またまた救われたような気持ちになった。
しかし、果たしてASDには色がないというのは、一体どういうことだろうか? と疑問を抱くかもしれない。これは、ASDは元より自己認識が難しいということがこの書籍の見解のようだった。
確かにそれはその通りで、筆者はふとしたときに意識を拡散させている経験があった。詳しくはわからないが、ASDは意識が感覚の洪水に襲われ、自身が拡散してしまったり、自分が何者かわからなくなるらしい。
実際、気がつくと近くの誰かになっていたり、自然と混ざり合っていたりすることがあるのだ。時には鳥になり、人になり、木の葉になり影になるなどする。また、他者と自分の境界線がなく、区別をつけられなくなり、自分を認識することもできなくなる。それゆえ、あらゆるものに拡散する自分が透明であるとみなしているのかもしれない。
【透明とは何か 体験としての推察】
ただ当事者としての個人的な意見がある。この拡散しやすい自分を一度置いておき、ASD特有の「この世界に居場所がない、多数派への共感やすり合わせが難しい」等で透明になってしまうことも、一つの要因になるのではないかとも考えた。また発達障害による特有の困りごともあるため、昔から悩みごとを抱えやすく孤独になりやすいのも要因になり得る。
これは筆者の体験でしかないため推察になるが、私はこう考える。ASDは幼少期は気にせずに自分らしく生きるのだが、集団生活が始まると段々と問題が浮き彫りになる。そしてようやく自分の異常さに気づいてなんとか周りに合わせようとしていくのだが、生まれつきの感覚や能力が「著しく違う」ために、大抵は努力も虚しく失敗に終わり、自尊心や自己肯定感が下がる。
また、定型に近く矯正されたとて、完全な定型になることは不可能である。定型と近くなったとしても、人間を真似た化け物のような感覚を持たざる得なくなる。見た目は人間でも中身は人間ではないのだ。
私の場合は努力して多少は定型らしく振る舞えるようになり、周りの態度から見て人並みの丁寧さや気遣いを獲得しつつあるようだが、他者からは「人間だよ」と励まされても、自身がおかしいことや違和感があることは経験や実感を持って骨の髄まで知らされているため、心には届かない。
それに、ふとした時に隠していた異物感をぽろっと出してしまい、そうして人を離れさせてしまう自分にもわかっている。
社会で生きていくためには、私は非人間的と呼ばれた本当の自分を捨て置いていかねばならなかった。しかし、捨て置いたとしても自分が社会の異物であることには変わりないのだ。
それらが何度も繰り返されるうち、居場所も自信も自己も失い、この現代社会で、歪な形を保ったまま透明な姿、透明な自己イメージになる可能性もあるのではないかと経験から感じるのである。
また、この本では社会に適応するASD女性が登場しており、周りに合わせて自在に色を引き出す自分のことをカメレオンと称していた。
この感覚は過剰適応するASDと共通するところを感じる。彼女が完全に適応できているかはわからないが、私の場合は完全に色を操ることはできない。しかし、自我を殺して他者に合わせたいという感覚は持ち合わせている。だがその結果、自分が消失しどこに居場所を置けばいいかわからなくなってしまった。
話を戻すが、人間らしきものに近づけば近づくほど、あの頃の自分や、それを持ち続けている者たちを愛おしく、同時に羨ましくも感じる。
おそらく自分の「色がない、透明である」という自己認識は、拡散しやすい体質もありながら、報告されたASD解離患者にはなかった喪失のニュアンスも含まれているようである。
【お前はクラゲのようである】
以前、ほとんど初対面の年配の男性に、「お前は居場所がなくて彷徨っているように見える。クラゲのようだ」などと言われたことがあったが、先程の経験を考えると言い得て妙である。いわばコールドリーディングであった可能性は大いにあるが、この際どうでもよい。
言っておくが彼は悪い人間ではない。山籠りと小説を書くことが趣味という、様々なアドバイスを私に与え、筆者を支えてくれた者の一人である。彼は生まれつき涙を流しやすい私を「一生懸命生きているからだ」と肯定したのである。そんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。
彼は声の小さい私に声を大きくしろとよく言ってきたのだが、少し話を聞くと、小さな頃に虐待を受けていて片耳が聞こえにくいとのことだった。
しかし、「でもあの頃には虐待なんて言葉はなかったから」とも訴えており、どうしようもなく私は黙ってそれを聞いていた。色々とあり、その人とはもう三年以上会ってはいないが、何処かで元気でいてほしいと思っている。
【生きていたい 生と死の狭間に】
入りで筆者は幻聴に悩まされていると言ったが、その大半は「死んでしまえ」だとか「生きている価値がない」など、そういった自己価値と死を結びつけた類いのものばかりである。
それを聞くたびに叫んだりうめいたり、夜中に助けてくれと暴れているのだが、これは特性により失敗体験が積み重なったのと、現代社会を生きるにはありのままの自分ではいられなかった無意識的な自責が理由で、自尊心や自己肯定感が低くなってしまったのが理由だろう。
筆者は周りから肯定されても納得がいかなかったり、受け止めることが難しいため、なかなか他者の言葉を受け入れることもできなかった。
ただ、これではコミュニケーションに問題が出ると考え、大学時代にやっと受け止める練習を繰り返し、以前よりはかなり改善した。
そのように小さなところから努力してきたわけだが、やはり死にたいという感覚は消えてはくれない。だだし、決して本当に死にたいわけではないという気持ちは、確かに存在する。
ふしぎと度々、何がなんでも生きていたいという気持ちに襲われるのだ。しかし、もう一人の私は価値のない自分が生きることを許さないだけである。
「これができない私に価値はない、それができないならいっそ死んだ方がいい。頑張らなければ生きている価値はない」という条件付きの承認がこの胸に深く根付き、長年蝕んだことで穴が開いてしまったことにも気づいている。
だが、果たして生きる価値や意味など存在するのだろうか? という一種の悟りのようなものも浮かんでくる。本当に生きていたいのなら、生きていく意味や価値を問うのではなく、生きていたいという本能的で衝動的な強い気持ちに素直になり、純粋な気持ちでそれに従うことこそずっと重要なのではないだろうか?
本当に心の底から生きたいと思った時、果たして価値など考えるだろうか。そして、生きる意味など考えなくて済んでいた頃があるのなら、死を前に勝手に意味を見出そうとしているだけである。本当は意味や価値などなくても生きていたはずなのだ。
逆に生きる意味や価値などがあるとするなら、私は今自由を奪われ、その意味と価値のためだけに飼い殺しされているだけなのではないだろうか?
ただ生きたいという感情を受け入れ、承認するほかなく、足枷のない愛のもと、自らの足で生きていく方がずっと幸せなのではないだろうか。しかし、何もわからないのだ。
やはりこの無価値感をどうにかするには、自らを自らで何度も繰り返し承認していくしかないような気がする。
【さいごに】
この解離のエピソードや感覚は、自分を振り返るために一部取り上げたものである。
私には友人も家族もいる。信頼できる人もいる。しかしなぜか、感覚としては遠いところにいるような、隔絶された物悲しいものを胸に抱え続けている。
だが、この友情や信頼関係を失いたいわけでもなく、感覚が離れていたいわけでもない。感覚が違くても、同じものを分かち合えるはずと信じたいのだ。だからこそ長年病に悩まされても少しずつ努力をし、人間関係を大切に築いてきた。
もちろん、全ての人がそうではないが、人間の美しさの憧れを燻らせながら、人間の真似事をし続けている私は少なくともそうである。
想像より遥かに長くなってしまった。しかし、この文がいつかの自分にとって救いになるよう祈っている。
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