日本が100歳だらけになったとき、若者の戦いが始まるのだ。
クエスチョン
それは難しい問いである。なぜなら100歳になったイメージができない。100歳の人がごくわずかで、そんな人が描くビジョンをあまり聞く事がない。
こういう問いをされたときに、具体性があるにしろないにしろ、「私は○○する。」という目標を言える人は多いのではないか。
それは一番数が多い50歳、60歳、70歳の意見を参考にして、人生設計を立てている人が日本人には多いのだ。
逆に言えば、人生設計を立てている人は50~70歳の意見を参考にしているといえる。
統計を見て、戦う。
グラフを見てもらいたい。
教科書やニュースで見る人はなるほどと思うだろうが、
若者が少なく、シニア世代が多いという壺型のグラフになっている。
これを良くないと言うのが世の風潮になりつつあるが、私は別の考えを持っている。
多様性社会なんだから、もう仕方なくね?
昨今ではパラパラ・モラハラが話題として挙げられるが、ではその基準を箇条書きにしろと言われたら、延々と長文が続くうえ、どこか曖昧で掴み所のない内容となるはずだ。
これが多様性社会の弱い部分だと思っている。私たちのお父さんお母さん世代の日本は成長期に入っていた・あるいはハラスメントという言葉の意味自体が全くと言って良いほど分かんない状態だから、当時から怒鳴り付けるという行為自体が教育・人格矯正には有効手段の一つとして広まり、
いわば正攻法として扱われたに違いない。
ただ私たち現代っ子はハラスメントの普及と増大・労働基準法の遵守、SNSによる情報拡散などにより、下手に教師たちが精神論・スポ根を唱えることができなくなり、人格形成がままならない子供にも、人間としてのアイデンティティを尊重して話す。すると、渋谷でお洒落かつクールな洋装で大通りを歩くZ世代のように、個性を重きとして前に進む傾向が強くなる。
つまり多様性というのは、中学生高校生にとって大人になれる近道でもあるのだ。
ただ欠点として、キャリアプランのYESとNoをはっきり決めることができないので、いざという時に頭がポカーンというように何も考えられなくなる。
ただそうやって未来を決まられないままにしても良いのだろうか。
若者の取り柄はアイデア力と行動力だ。
100歳になるという世界を生き抜くために、自分のスキル・置かれた環境・繋がりから才能を見出して、市場で戦って活躍することが求められるだろう。
おわり